李脩奔宋 胡軻歸京 李脩は宋に奔り 胡軻は京に歸る (李脩・李亮・胡軻)
北史李脩字思祖本陽城館陶人也父亮
少學醫術未能精究大武時奔宋
【訓み下し】068-1
『北史』:李脩,字は思祖,本(もと)は陽城館陶の人なり。父は亮,少(わか)くして醫術を學ぶ。未だ精究すること能わず。大武の時 宋に奔る。
【注釋】068-1
○李脩奔宋:以下の文によれば,宋に奔ったのは,李脩ではなく,その父の亮である。
○北史:016を参照。 ○陽城:『北史』作「陽平」。陽平郡。三國魏置。治元城。在今山東大名縣東。石趙移治館陶。在今山東館陶縣西南。隋廢。⦿東晉僑置。後魏徙廢。故治在今安徽靈𤩹縣南。⦿南朝宋置。今山東汶上縣地。⦿南齊置。今江蘇淮安縣地。⦿後魏置。今闕。當在安徽舊鳳陽府境。 ○館陶:館陶縣。漢置。在山東館陶縣西南四十里。宋白曰。城西北七里有陶丘。亦曰陶山。趙置館於丘側。漢因以名縣。更始二年。蕭王追擊銅馬於館陶。大破之。晉永和七年。後趙石祗自立於襄國。使其將劉顯攻冉閔於鄴。爲閩所敗。閩追奔至陽平。時陽平郡治館陶也。隋置毛州於此。唐武德五年。劉黑闥自魏州北遁。至館陶橋永濟渠渡。而西軍大潰。興元初朱泚作亂。朱滔謀渡河侵汴入魏。約田悦會館陶偕行渡河。悦飾詞謝滔。滔怒。大掠而去。志亦謂之毛州城。以隋時毛州置於此也。五代時移縣於今治。(續山東考古録謂今館陶縣治。卽唐永濟縣故城。金時始移治。)明建文二年。燕王戰於東昌。爲盛庸所敗。退屯館陶。卽今縣也。清屬山東東昌府。民國初屬山東東臨道。 ○精究:精心研究。 ○大武:太武帝(たいぶてい)は、北朝北魏の第3代皇帝。第2代明元帝の長男。字の仏狸は古代テュルク諸語のbüriで、狼を意味する。諱は拓跋燾(たくばつ とう)。 ○宋:南朝宋。宋(420年 - 479年)は、中国南北朝時代の南朝の国。周代の諸侯国の宋や趙匡胤が建てた宋などと区別するために、帝室の姓を冠し劉宋(りゅうそう)とも呼ばれる。首都は建康。
★引用文のみでは,まったく名医とはいえない。『北史』では,この下に「又就沙門僧坦,略盡其術。針灸授藥,罔不有効。」あり。
識典古籍*******************************************************
北史:李脩,字思祖,本陽城館陶人也。父亮,少學醫術,未能精究。大武時奔宋。
【AI譯文】
『北史』记载:李修,字思祖,他本是阳城馆陶人。他的父亲名叫李亮,年少时学习医术,没有精通。大武在位时,他逃奔到了宋国。
【AI 1】『北史』によると、李修(字は思祖)は本来、陽城館陶の出身である。彼の父、李亮は若い頃に医術を学んだが、十分に習得することはできなかった。大武帝の治世に、李修は宋国へ逃亡した。
【AI 2】『北史』にはこう記されている:李修、字は思祖(しそこ)、本籍は陽城館陶(ようじょうかんとう)である。彼の父親の名前は李亮で、若いころに医術を学んだが、完全には習得できなかった。大武(おおぶ)が在位していた時、彼は宋国に逃亡した。
★ルビに難あり。
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