2024年4月30日火曜日

黄龍祥『論兪穴』1.1

 1 兪穴分類奇正論〔兪穴の分類である奇正論〕


 「正」と「奇」の二つに分ける方法は,伝世本『黄帝内経』が理論体系を構築する際によく採用する分類法である。

 「正」は,ときに「経」「常」などの同義語が用いられることもある。「奇」も「別」「繆」 の字が用いられることがある。たとえば,手と足に始めと終わりを持つ十二脈を「経脈」とし,その他の分散する脈を「奇経八脈」とする。経脈の行(めぐ)りはまた本経を「正」とし,内部に入って臓腑に属絡する分枝を別とする(『霊枢』で経脈の正と別を論じた専門の論文を「経別」〔篇〕といい,『太素』は「経脈正別」〔篇〕という)。心肝脾肺腎と小腸胆胃大腸膀胱を「常府」といい,その他の六府を「奇恒之府」という(楊上善注:「此六非是常府,乃是奇恒之府。奇,異;恒,常”〔此の六は是れ常府に非ず,乃ち是れ奇恒の府。奇は,異なり。恒は,常なり〕〔『太素』巻6・藏府氣液〕)。通常の刺法を「経刺」(『黄帝内経』では「経刺」には異なる用法がある。ここでは『素問』繆刺論の用法を採用している。王冰の注〔『素問』血気形志・刺瘧論〕では「常刺」にも作る)といい,経刺以外の刺法を「繆刺」(王冰注:「繆者,異也,異於經刺故曰繆刺〔繆なる者は,異なり。經刺に異なる故に繆刺と曰う〕」)としてまとめる。固定的な部位と名称を持つ兪穴を「経兪」とし,固定した部位を持たない兪穴を「奇兪」(明代には経典には見えなくとも奇効がある兪穴を「奇兪」あるいは「経外奇穴」とした[1])とする。

    [1] 李宝金,孟醒,武晓冬,等.”经外奇穴”概念演变与术语规范化问题探讨[J].针刺研究,2020,45(9):746-750.

 本論では『黄帝内経』による兪穴を二つに分ける分類法を「奇正論」と称する。


 1.1 経兪と奇兪

 『黄帝内経』で固定的な位置を持つ経兪の主なものには,脈兪・気穴・骨空・募兪の四種類がある。その中で,蔵府の「募」穴と『霊枢』九針十二原に見える五蔵六府十二原の「膈之原」「肓之原」は,同類である。理屈からいえば,膈之原と肓之原を見つけることができ,しかも当時の鍼具と鍼師の技術がこの二穴を刺す要求を満足させることができ,一定の臨床応用が得られたのだから,他の蔵府の募穴は自然に見つかったはずである。しかし伝世本『黄帝内経』で確認できる蔵府の募穴は「胆募兪」のみで,その他の蔵府の募穴がみな発見され,臨床に応用されたかどうかは,確認できない。確実にわかることは,『黄帝内経』より遅れて成書した『難経』に蔵府の募穴を専門に論じた難〔67難〕があり,『黄帝明堂経』にはさらに詳細な記載があることである。

 四つに分けた経兪の中で前の三種類については,伝世本『黄帝内経』にそれを専門に論じた気府論・気穴論・骨空論という篇がある (伝世本『素問』にあるこの三篇はすべて王冰によって大幅に改編されたが,それだけでなく気穴論の「気穴」は経兪の総称の意味を兼ねているため,三篇に掲載されている穴の分類は,一部重なっている)。蔵府の募兪を論じたものとしては,三国時代に専門書『募兪経』〔呂廣『募腧經』,佚〕があった。


  (1)脈兪蔵兪

 漢代以前の初期鍼灸文献では,「兪」あるいは「輸」字は,脈と一緒に関連づけられることが多い。鍼灸師は古くから脈を診たり刺したりする過程で,最初の固定的な部位を有する刺灸箇所,すなわち脈兪・絡兪・蔵府の兪を見つけた。

  絡兪は絡脈が出入りする会所にあり,その「会」は浅く表に出る。脈兪は経脈が出入りする会所にある。筆者は初期の研究[2]で,馬王堆から出土した帛書『足臂十一脈灸経』 『陰陽十一脈灸経』には,経脈の循行を論じる際に最も頻繁に使われる術語が「出」字であり,合計52あることに気づいた。脈の循行に「出」があれば,当然「入」があるはずで,『霊枢』邪客では,手太陰・手厥陰二脈の「出入之処」が詳しく述べられており,そのうえ出る所入る所には,恰度この二本の経脈の本兪がある[3]

    [2] 黄龙祥.中国针灸学术史大纲[M].北京:华夏出版社,2001:496-497.

    [3] 黄龙祥.经脉理论还原与重构大纲[M].北京:人民卫生出版社,2016:40-41.

 古人はまた蔵府の兪は,上部では背中に出,下部では腕(てくび)踝肘膝に出ることを発見した。蔵府の募穴の系統が発見されたのも『難経』の成書年代より遅くはない。

 これらの発見に基づいて,古代人は「脈の注ぐ所を兪と為し」「脈の出入の会を兪と為す」という認識を次第に持つようになった。「脈会」も各経兪の標準配備となった。どの種類の経兪であれ,「脈」がその間にあれば兪穴となることができる。「脈会」を探すことも,鍼師の最も重要な仕事であり,いわゆる「審於調氣,明於經隧,左右支絡,盡知其會〔調氣を審らかにし,經隧を明らかにし,左右の支絡,盡く其の會を知る〕〔『霊枢』官能〕である。

 医書のみならず,漢代の医書以外でも同様または類似の観点を表わしている。『論衡』順鼓に「投一寸之鍼,布一丸之艾於血脈之蹊,篤病有瘳〔一寸の鍼を投じ,一丸の艾を血脈の蹊に布(し)かば,篤き病も瘳(い)ゆること有り〕[4]とある。この文にある「蹊」は「溪〔谿・渓〕」字の異体字である。すなわち『素問』気穴論にいう気穴の所在する「渓谷」の意味である。水が注ぐところを「溪〔谿・渓〕」となし,脈の注ぐところを「兪」となす。それゆえ王冰は「大經所會,謂之大谷也;小絡所會,謂之小溪也〔大經の會する所,之を大谷と謂うなり。小絡の會する所,之を小溪と謂うなり〕」(『素問』五蔵生成)と言っている。漢代道経の文集『太平経』では,さらに明確に「脈会処」を兪穴の代名詞としていて,「脈会」を探索する正確さを鍼師の水準を審査する指標としていた〔『太平経』の引用文については,下文3.3を参照〕。このことは,当時,脈会を兪とする認識が医科以外の学者にもすでに熟知されていたことを物語っている。

 [4] 陈志坚.诸子集成[M].北京:北京燕山出版社,2008:127.

 今日の鍼灸師は経に帰属する兪穴を区別をせず,一様に「経穴」と呼んでいるが,古人は厳格に区別していて,皇甫謐や楊上善から王冰にいたるまで,つまり唐以前の代表的な医経注家は,みな脈兪の持つ異なる性質を明確に指摘していた。

    『鍼灸甲乙經』卷三〔手太陰及臂凡一十八穴第24〕:別而言之,則所注為“俞”;總而言之,則手太陰井也、滎也、原也、經也、合也,皆謂之“俞”。非此六者謂之“間[俞]”〔別けて之を言えば,則ち注ぐ所を「俞」と為す。總べて之を言えば,則ち手の太陰井なり,滎なり,原なり,經なり,合なり,皆な之を「俞」と謂う。此の六者に非ざる,之を「間[俞]」と謂う〕。

    『太素』卷五・十二水:問曰:十二經脈之氣並有發穴多少不同,然則三百六十五穴各屬所發之經,此中刺手足十二經者,為是經脈所發三百六十五穴?為是四支流注五藏三十輸及六府三十六輸穴也?答曰:其正取四支三十輸及三十六輸,餘之間穴有言其脈發會其穴即屬彼脈〔問いて曰わく:「十二經脈の氣は並びに發する穴の多少同じからざる有り,然らば則ち三百六十五穴各々發する所の經に屬す,此の中の手足の十二經を刺す者は,是れを經脈發する所の三百六十五穴と為すか?是れを四支に流注する五藏の三十輸及び六府の三十六輸穴と為すか?」答えて曰わく:「其れ正に四支の三十輸及び三十六輸を取る,餘の間穴 其の脈 其の穴に發會すと言う有らば,即ち彼の脈に屬す」〕。

    『素問』診要経終論:「故春刺散俞,及與分理,血出而止」。王冰注曰:「散俞,謂間穴」。〔「故に春に散俞,及び分理とを刺し,血出づれば止む」。王冰注:「散俞とは,間穴を謂う」。〕


 『黄帝内経』で兪穴を専門に論じている気府論 (『太素』伝本)では,六本の陽経はみな「脈気の発する所」として穴を総括しているが,膝以下の本兪と六府の合兪は直接 「輸」と言っている。五本の陰経は本兪穴を主とし,その「脈気の発する所」の穴は一穴を超えず,これがない脈さえある。このことから気府論は,本兪を基礎として,その上に他の種類の関連する経兪を加えて構成されていることが分かる。そこに記載されている兪穴は,本脈の兪と脈気発する所の穴の二種類に大きく分けられる。

 このほか,『黄帝内経霊枢』の第一篇である九針十二原も「二十七氣所行皆在五輸〔二十七氣の行く所,皆な五輸在り〕」と明言している。これは,『黄帝内経』に言う,その「兪」を取るとは,多くの場合,特に経脈の本兪あるいは五兪穴の「輸」を指すのであって,広く気府論篇が「脈気の発する所」として分類した兪穴を指すのではないことを示唆している。

 異なる脈兪を区別する意義は以下のとおりである。本兪はよく経脈の病候を治し,その中の五蔵の原と六府の合は関連する蔵府の病症を治すことができ,その他の脈気が発する所の「散兪」「間穴」が主に局部的な病症を治療するという性質とは明らかに異なる。


 (2)気穴髎穴

 『黄帝内経』中の「気穴」には様々な意味がある。ここでは本文と関連する二つの用法を紹介する。その一は,「経兪」の別称,すなわち全ての固定した部位と穴名を持つ兪穴を指す。その二は,特に孫脈が肉肓〔『霊枢』脹論:「此言陷於肉肓,而中氣穴者也」。『太素』楊上善注:「肉肓者,皮下肉上之膜也」。≒分肉の間〕に出入りして形成される固定した位置と穴名を持つ兪穴,すなわち経兪の一種である。本節では,後者の概念である「気穴」について重点的に討論する。

 『黄帝内経』の著者が「論理人形〔人形を論理する〕」と極めて簡潔に表現した枠組みの中で,「氣穴所發,各有處名〔氣穴の發する所,各々處名有り〕」とすでに明言していたが,それが経兪に属することは疑いない。これにつづけて作者はまた「溪谷屬骨,皆有所起〔溪谷は骨に屬(つら)なり,皆な起こる所有り〕」という。では気穴と「溪谷」はどのような関係にあるのか。これについて,著者は気穴を専門に論じている気穴論篇において討論し,「氣穴之處,遊鍼之居」という。この「遊鍼」という用法には,明らかに『荘子』養生主の「遊刃」を模倣した痕跡がみられ,〔庖丁が〕刃を隙間に遊ばせたことは知られているから,鍼を遊ばせる場所はすなわち兪穴であり,空虚なところであるはずであることが知られる。いわゆる「中氣穴則鍼遊于巷〔氣穴に中(あ)たれば則ち鍼は巷に遊ぶ〕〔『霊枢』邪気蔵府病形〕が,これである。

 この鍼を遊ばせる間隙は,『素問』気穴論の「肉之大會為谷,肉之小會為溪,肉分之間,溪谷之會,以行榮衛,以會大氣〔肉の大會を谷と為し,肉の小會を溪と為し,肉分の間,溪谷の會,以て榮衛を行(めぐ)らし,以て大氣を會す〕」,『素問』五蔵生成の「人有大谷十二分,小溪三百五十四名,少十二俞,此皆衛氣之所留止,邪氣之所客也,鍼石緣而去之〔人に大谷十二分,小溪三百五十四名有り,十二俞を少(か)く,此れ皆な衛氣の留止する所,邪氣の客(やど)る所なり,鍼石 緣って之を去る〕」。気穴を刺し肉肓(分肉の間)に中(あ)たってはじめて気が得られる。この分肉の間は衛気が運行する幹線道路であり,気穴のある渓谷は営衛が運行する場所である。これが「気穴」という名前を得た寓意に違いない。

 また『太素』〔巻11〕気穴で楊上善は「気穴」の意味について,「十二經脈之氣發會之處,故曰氣穴也〔十二經脈の氣の發會する處,故に氣穴と曰うなり〕」と注している。厳格に言えば,「孫脈之氣發會之處,故曰氣穴也〔孫脈の氣の發會する處,故に氣穴と曰うなり〕」というべきである。その理由は,〔『素問』〕気穴論は孫絡の会を,「孫絡三百六十五穴會,亦以應一歲,溢奇邪,以通榮衛〔孫絡三百六十五穴會,亦た以て一歲に應ず,奇邪を溢し,以て榮衛を通ず〕」と論じていて,上文の渓谷論と軌を一にして,渓谷の間で会するのは孫脈であると説明している。この点は,『霊枢』癰疽で確認できる。すなわち「中焦出氣如露,上注溪谷,而滲孫脈〔中焦は氣を出だすこと露の如し,上って溪谷に注ぎ,而して孫脈に滲(し)む〕」,渓谷にいたるのは孫脈である。

 古人が長期にわたり脈を診,脈を刺すことを通じて脈兪を発見し,分肉を刺している中で気穴を発見したとするならば,骨を刺すことを通じて別の経兪すなわち骨空を発見したことになる。『霊枢』衛気失常に「皮有部,肉有柱,血氣有輸,骨有屬……骨之屬者,骨空之所以受益而益腦髓者也〔皮に部有り,肉に柱有り,血氣に輸有り,骨に屬有り……骨の屬は,骨空の益を受けて腦髓を益す所以の者なり〕」という。

 骨空は,二本の骨あるいは多くの骨の会であり,一般には「髄空」を指し,多くは髄海〔脳/『霊枢』海論〕のある頭蓋骨とそれに繋がる脊柱に位置する。これ以外の関節間の空所は,「骨解」「節解」ともいい,目で見える骨空である。これらの部位はしばしば兪穴があるところでもあり,この骨空にある兪穴を「髎穴」という。

 気穴と髎穴が大量に発見されるにともない,経兪の種類と数が急速に増えた。このとき,どのような術語を兪穴の総称とするのかという問題が生じた。

  各種の兪穴を調べれば、二つの特徴が見いだせる。その内在的な機能は血気の輸送と交会である。その外形の特徴は中空と凹みである。この二つの意味を同時に表現できる字が「兪」であり,「兪」の持つ「輸送」と「中空」という意味を表現するために,古人は別に 「輸」と「窬」という二つの派生字を作ったので,「兪」を兪穴の総称とするのは適切である。一方「穴」字には隙間・空洞という意味があるだけで,脈兪と募穴を統括するのは難しい。

  『黄帝内経』には経兪の総称として「気穴」という用例が見られるが,各種の刺灸部位の総称としては使われていない。「兪」「穴」の二字で構成される語で刺灸部位を表わすのは,「兪」を中心語〔原文:中心詞。語法用語。修飾限定される名詞〕とする「穴兪」の用法が見られるだけであり,「兪穴」の用例は見られず,唐代の王冰まで「穴兪」という言葉が使われ続けた。しかし楊上善注『太素』は改めて「輸穴」に統一し,後世において「穴」を兪穴の総称とする下地となった。

  前に唐代の楊上善が模範を示し,後に影響力がさらに大きい宋代の国家経穴標準『銅人腧穴鍼灸図経』への発展があって,「穴」を中心語とする「兪穴」「輸穴」「腧穴」という術語がさらに広範に応用されるようになり,「穴兪」という用語はだんだん影が薄くなった。「窬」字は五代以降,鍼灸の兪穴の名称としても使われていない。現在盛んに使われている兪穴の術語,「経穴」「穴位」にはすでに「兪」字も「腧」字も見られない。しかし、歴史上では依然として名医が異なる意見を述べている。たとえば,元・明の際の滑伯仁はその医学名著『難経本義』六十八難で「此〈俞〉字,空穴之總名。凡諸空穴,皆可以言俞〔此の〈俞〉の字は,空穴の總名なり。凡そ諸々の空穴,皆な以て俞と言う可し〕」と明言している[5]

  [5] 滑寿.难经本义[M].傅贞亮,张崇孝点校.北京:人民卫生出版社,1995:88.

 歴史的,あるいは論理的視点から考えてみても,滑伯仁氏の見解は採用すべきではあるが,今日すでに口になじんでいる「兪穴(腧穴)」を「穴兪」に戻し,「兪」を刺灸部位の総称にするのは,おそらくは難しいだろう。しかし、学術史研究のレベルでは,この問題を明確にしておく必要がある。さもなければ,現代人が『黄帝内経』のような初期の鍼灸文献を読む時に,多くの困惑して理解できないところに遭遇したり,経文を長い間誤読したままで,それを自覚しないことになる。


 (3)奇兪の要

 固定された位置を持たない奇兪には,主に「病所」「病応」の二種類が含まれる。

 いわゆる「病応」とは病理的反応点を取ることであり,脈の病の反応点を血絡・結絡という。筋の病の反応点は筋急・結筋のところにある。これ以外に,多くの病症が圧痛や押すと痛みが止まる有効点などとして触知することができる。これらの病理的反応点が経兪に現われたら「応穴」という。経兪でなければ「天応穴」といい,奇兪に属する。

 「各々処名が有」る気穴を論じた専門篇「気穴論」で,篇末に特に名前も定位置もない奇兪「孫絡血」について,意味深長な文がある。「孫絡之脈別經者,其血盛而當瀉者,亦三百六十五脈,並注於絡,傳注十二絡脈〔孫絡の脈は經に別かるる者なり,其の血盛んにして當に瀉すべき者,亦た三百六十五脈は,並びに絡に注いで,傳えて十二絡脈に注ぐ〕」。この「血盛んにして瀉すべき」孫絡は,「孫絡血」とも名づけられる。正当な経兪ではなく名前も定位置もないので,「奇兪」に属する。

 古人はまた筋と脈には非常に緊密な関連があることに気づいた。たとえば病因から見れば,脈病と筋病には共通する主な病因「風寒」がある。病機から見れば,寒すれば則ち脈急し,脈急すれば則ち痛み,寒すれば則ち筋急し,筋急すれば則ち痛む。脈を診て,「是れ動ずれば則ち病み」,筋を診て,「筋急すれば則ち病む」。治療から診れば,脈痺は「血絡」「結絡」を治療し,筋痺は「筋急」「結筋」を治療した。

 「血絡」「結絡」で経兪にないものを奇兪とすれば,「筋急」「結筋」で経兪にあたらないものも当然奇兪とみなされる。したがって十二経筋病候の下にはみな「以痛為輸〔痛を以て輸と為す〕〔『霊枢』経筋〕と明言されている。すなわち「筋急」で最も痛む場所を兪とする。

 

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