宋・張杲『醫説』卷九 養生修養調攝に
摩面:「太素經曰:一面之上、兩手常摩拭使熱、令人光澤、皺斑不生、先摩切兩掌令熱、以拭兩目、又順手摩髮理櫛之狀、兩臂更互以手摩之、髮不白、脈不浮外」。
http://www.theqi.com/cmed/oldbook/book197/b197_41.html
とあります。
これは、楊上善の『太素』のことでしょうか?
2015年9月1日火曜日
はるばる遠くへ来たもんだ
『内経』が,今年の秋号で200号になるのを記念して,会員諸氏から会との関わりについて書いてもらおう,となったらしい。「これは全員に強制的に書いてもらいましょう」だけど,はたしてどれくらい集まったんだろう。たしか,昨日が締め切りのはず。「多少の余裕はあります」だそうだけど。
記事が少なくとも,会員が少ない,ということではありません。たぶん。
記事が少なくとも,会員が少ない,ということではありません。たぶん。
2015年8月10日月曜日
談話室なんて
なぜ当時の言い方で掲示板としなかったのか,なぜ現在のシステムどおりBLOGと呼ばないで,「談話室」などと言っているのか。まさしく,談論風発を期待しているからです。最初は全くオープンでした。でも,迷惑な,たぶん卑猥なところに通じる書き込みを防ぎようが無い。そこで,googleのBLOGを利用して,登録したものでなければ書き込めなくした。いささか敷居は高くなった。で,他の人の書き込みには,なるべくコメントしようとしたけれど,最近は怠惰になって,放置することが多くなった。(今回だって,早く気づいて,『素問紹識』にもいろいろ有るよ,と言えばそれでお仕舞いだった。それにしても,疏証とは穿鑿ということじゃないのかね。どんな『素問紹識』を見ているかくらいは,調べるべきだ!と指導している講座じゃ無いのか。『素問紹識』に無ければ,『素問識』あるいは『素問攷注』の間違いじゃないか,ひょっとして『素問講義』かも,まではよかった。おしい。)
楽をしたいと思って,ここに質問を投稿する。我が意を得たりです。それに対して,質問の仕方がなってないと小言をいう。これも,投稿者にはつらいところだろうが,まあ妥当な(あるいは,望ましい)応答だろう。『素問疏証』なんて知らない,というような書き込みをしちゃったのは,なんとも軽率だったけど,まあお笑いぐさで。最初のコメントをした直後に,あれ,ひょっとしたらと『季刊内経』を開いて確認はしている。で,次のコメントからは,わかっているようなわかってないような妙なものになった。まあ,照れ隠しでもある。ただ,それを咎められるほどの格式有る談話室ではない,とも思っている。
楽をしたいと思って,ここに質問を投稿する。咎めることはない。その質問が要領を得ないという辛口のコメントも,咎めることはない。しょうこりもなくまた不用意な質問をする。大いに奨励されるべきだ。
きちんとした発表だけというなら,『季刊内経』に投稿すればいい。事務局からの連絡をというのなら,全会員を対象にしてメーリングリストでも利用した方が確実だろう。談話室は,失言して,頭をコツンとやられて,照れ笑いをするところでいい。
楽をしたいと思って,ここに質問を投稿する。我が意を得たりです。それに対して,質問の仕方がなってないと小言をいう。これも,投稿者にはつらいところだろうが,まあ妥当な(あるいは,望ましい)応答だろう。『素問疏証』なんて知らない,というような書き込みをしちゃったのは,なんとも軽率だったけど,まあお笑いぐさで。最初のコメントをした直後に,あれ,ひょっとしたらと『季刊内経』を開いて確認はしている。で,次のコメントからは,わかっているようなわかってないような妙なものになった。まあ,照れ隠しでもある。ただ,それを咎められるほどの格式有る談話室ではない,とも思っている。
楽をしたいと思って,ここに質問を投稿する。咎めることはない。その質問が要領を得ないという辛口のコメントも,咎めることはない。しょうこりもなくまた不用意な質問をする。大いに奨励されるべきだ。
きちんとした発表だけというなら,『季刊内経』に投稿すればいい。事務局からの連絡をというのなら,全会員を対象にしてメーリングリストでも利用した方が確実だろう。談話室は,失言して,頭をコツンとやられて,照れ笑いをするところでいい。
2015年8月5日水曜日
質問というより
ちょっと楽をさせていただきたく投稿します
今、『素問疏証』の校正中なのです。その中で、
>『素問紹識』にいう
>『太平御覧』に此の一弾を挙げ、併せて注語の有るに…
とあったのですが、僕の手許の『素問紹識』にありません。『素問識』『素問攷注』にもありませんでした。
もしかしたら喜多村チョッカンの『素問講義』にないかともおもいましたが、手許にないのでお手上げです。
『素問』四気調神大論第二の、夏三月の蕃秀という言葉についての箇所です
鶯谷は遠いのでお助けください。
migu
今、『素問疏証』の校正中なのです。その中で、
>『素問紹識』にいう
>『太平御覧』に此の一弾を挙げ、併せて注語の有るに…
とあったのですが、僕の手許の『素問紹識』にありません。『素問識』『素問攷注』にもありませんでした。
もしかしたら喜多村チョッカンの『素問講義』にないかともおもいましたが、手許にないのでお手上げです。
『素問』四気調神大論第二の、夏三月の蕃秀という言葉についての箇所です
鶯谷は遠いのでお助けください。
migu
2015年7月22日水曜日
鍼灸の辨証論治
鍼灸を学ぶ外国人学生の質問:
鍼灸治療学の授業では、先生は論理的に筋道立って説明しますが、鍼灸の臨床の実際では、辨症論治を使うことが少ないのは、なぜですか?
李鼎教授:鍼灸そのものの特徴によるのです。われわれは鍼灸臨床の規範を簡単に方薬のようにはできないのです。
李恒先生:鍼灸臨床上、辨症論治が核心でないとしたら、それに取って代わるものは、なんですか?
李鼎教授:鍼灸はすべて外治法に属します。内治法である方薬とはまったく異なります。鍼灸で辨症論治を講ずるのは、経絡臓腑・寒熱虚実の各証を辨ずることに重きがあります。鍼灸治療をおこなうにあたっては、気を調え、神を治するによってはじめて鍼灸治療の総則とします。
鍼灸治療学の授業では、先生は論理的に筋道立って説明しますが、鍼灸の臨床の実際では、辨症論治を使うことが少ないのは、なぜですか?
李鼎教授:鍼灸そのものの特徴によるのです。われわれは鍼灸臨床の規範を簡単に方薬のようにはできないのです。
李恒先生:鍼灸臨床上、辨症論治が核心でないとしたら、それに取って代わるものは、なんですか?
李鼎教授:鍼灸はすべて外治法に属します。内治法である方薬とはまったく異なります。鍼灸で辨症論治を講ずるのは、経絡臓腑・寒熱虚実の各証を辨ずることに重きがあります。鍼灸治療をおこなうにあたっては、気を調え、神を治するによってはじめて鍼灸治療の総則とします。
2015年5月28日木曜日
2015年5月10日日曜日
小阪 修平『そうだったのか現代思想-ニーチェからフーコーまで』
47頁:みなさん,近代科学というのは複雑な考えかただと思っていらっしゃる方もいるかもしれませんが,じつは単純な考えかたなんです。よぶんなことをいっさい度外視してかんがえる。十九世紀というのは,近代科学でわかることだけが正しいとかんがえられてきたんです。でもじつは,近代科学でわかるというのは,あらかじめわかりにくいものを度外視して,近代科学のやりかたでわかるものだけをわかるとかんがえたやりかたなんですね。
390頁:これは新聞でこのあいだ読んだんですが,こういうことはみなさんはどう思われます?今(九〇年代半ば),針灸の学会で,針灸の一般的なマニュアルをつくろうという試みがあるらしいんです。西洋医学と針灸の東洋医学が協力してつくるんですが,マニュアルをつくって治療のスタンダードをつくるというのは,近代的な発想ですね。昔だったら秘伝になるところです。これは悪い試みだと思われますか,いい試みだと思われますか。たとえば,針灸だけでなく伝統的な医学のよさというのは,一人一人の相手の経験とか体の微妙なバランスに対応して治療していくことのなかにあるのであって,一般的なマニュアルをつくれば,そういうのがなくなるとかんがえることもできます。
ぼくはサウナが好きでときどき行くんですが,そのあとごくたまにマッサージを受けるといつも腹が立つんですね。マニュアルがあってみんな同じようにするんです。ぼくはパッと相手を見た瞬間,だいたいどのへんが凝っているなあというのがわかります。このへんからモアーとした感じが漂っているとか,ぼくは技術自体はうまくないですが,そういうふうなのに反応してやる。そういうカンとか,トータルに言えば相手の食生活から悩んでいることまでいろいろ含めて,相手の人間を一つの全体としてかんがえていくのが伝統医学だと思います。そうすると,マニュアルをつくるのは悪いことか。
ぼくはマニュアルの使いかただと思います。いろんな経験によってわかるレベルがあって,ある程度の一般的な共通像をつくることができます。そうすると,ここがもんだいなんですが,必ずこの共通像からはじきだされてしまう,その人の個人的な特性なりいろんな雰囲気なりがあります。実際,ぼくがサウナに行ってマッサージを受けると,かなりレベルが低いんです。そういう人にとっては,こういうマニュアルは十分役に立つだろうと思います。ところが,マニュアルをつくることによって,ここからはじきだされてしまうものへの目配りというものがなくなってしまうと,このマニュアルというのはかえって悪影響をおよぼす。こういうことにも近代の特徴が表れていて,近代を批判することの難しさがあると思うのです。
390頁:これは新聞でこのあいだ読んだんですが,こういうことはみなさんはどう思われます?今(九〇年代半ば),針灸の学会で,針灸の一般的なマニュアルをつくろうという試みがあるらしいんです。西洋医学と針灸の東洋医学が協力してつくるんですが,マニュアルをつくって治療のスタンダードをつくるというのは,近代的な発想ですね。昔だったら秘伝になるところです。これは悪い試みだと思われますか,いい試みだと思われますか。たとえば,針灸だけでなく伝統的な医学のよさというのは,一人一人の相手の経験とか体の微妙なバランスに対応して治療していくことのなかにあるのであって,一般的なマニュアルをつくれば,そういうのがなくなるとかんがえることもできます。
ぼくはサウナが好きでときどき行くんですが,そのあとごくたまにマッサージを受けるといつも腹が立つんですね。マニュアルがあってみんな同じようにするんです。ぼくはパッと相手を見た瞬間,だいたいどのへんが凝っているなあというのがわかります。このへんからモアーとした感じが漂っているとか,ぼくは技術自体はうまくないですが,そういうふうなのに反応してやる。そういうカンとか,トータルに言えば相手の食生活から悩んでいることまでいろいろ含めて,相手の人間を一つの全体としてかんがえていくのが伝統医学だと思います。そうすると,マニュアルをつくるのは悪いことか。
ぼくはマニュアルの使いかただと思います。いろんな経験によってわかるレベルがあって,ある程度の一般的な共通像をつくることができます。そうすると,ここがもんだいなんですが,必ずこの共通像からはじきだされてしまう,その人の個人的な特性なりいろんな雰囲気なりがあります。実際,ぼくがサウナに行ってマッサージを受けると,かなりレベルが低いんです。そういう人にとっては,こういうマニュアルは十分役に立つだろうと思います。ところが,マニュアルをつくることによって,ここからはじきだされてしまうものへの目配りというものがなくなってしまうと,このマニュアルというのはかえって悪影響をおよぼす。こういうことにも近代の特徴が表れていて,近代を批判することの難しさがあると思うのです。
2015年5月8日金曜日
『 銅人腧穴鍼灸圖經』序に出てくる「式」
『 銅人腧穴鍼灸圖經』序:「復令創鑄銅人爲式」。
また銅人を鋳造して,模範とさせた。
式:式樣(樣子、形狀)。範式。
模範:もとの意味は木製の模型。
『後漢書』馬援列傳:
援……乃鑄為馬式(李賢注:式,法也。)法:範式。
馬援は……そこで鋳造して「馬式」を製作した。
……孝武皇帝時,善相馬者東門京鑄作銅馬法獻之(注:東門,姓也;京,名也)。
……孝武皇帝(武帝)の時,善く馬を相する(鑑別する)者で東門京というひとが,鋳造して「銅馬法」を作り,献上した。
……有詔置於宣德殿下,以為名馬式焉。
……詔勅により宣德殿下にその模型を設置し,「名馬式」といった。
また銅人を鋳造して,模範とさせた。
式:式樣(樣子、形狀)。範式。
模範:もとの意味は木製の模型。
『後漢書』馬援列傳:
援……乃鑄為馬式(李賢注:式,法也。)法:範式。
馬援は……そこで鋳造して「馬式」を製作した。
……孝武皇帝時,善相馬者東門京鑄作銅馬法獻之(注:東門,姓也;京,名也)。
……孝武皇帝(武帝)の時,善く馬を相する(鑑別する)者で東門京というひとが,鋳造して「銅馬法」を作り,献上した。
……有詔置於宣德殿下,以為名馬式焉。
……詔勅により宣德殿下にその模型を設置し,「名馬式」といった。
2015年5月5日火曜日
丸山先生を顕彰するつもりなら
この日本内経医学会のインターネットホームページへもどって,「沿革と出版物」へ入ると,
遺徳の顕彰は,墓参りからでなく,遺著を読むことからはじめましょうよ。
●『黄帝素問・黄帝鍼経の栞』『黄帝鍼経講』(丸山昌朗先生没後20年遺徳顕彰会編、日本内経医学会刊、1995年)?というのが目に入ると思います。で「?」というのが何だかわかりませんが,他のものと対比させると,「絶版かも?」という意味になりそうです。そんなことはありません,少なくとも亜東書店の棚には並んでました。ひょっとすると最後の早い者勝ちかもしれないけれど,少なくとも2~3人は今なら入手できます。
遺徳の顕彰は,墓参りからでなく,遺著を読むことからはじめましょうよ。
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