國史補柳芳爲郎中子登疾重時名醫張
万福初除泗州與芳故舊芳賀之具言子
病惟恃故人一顧也張詰旦候芳芳遽引
視登遥見頂曰有此頂骨何憂也因評
脉五六息𠋩曰不錯壽且踰八十乃留方
數十字謂登曰不服此亦得後登爲庶子
年至九十
【訓み下し】021-2
『國史補』:柳芳は郎中爲(た)り。子の登 疾(やまい)重し。時に名醫の張萬福,初めて泗州に除せらる。芳と故舊(ふるなじみ)たり。芳 之を賀(いわ)い,具(つぶ)さに子の病を言う。惟(た)だ恃むは故人の一顧なるのみ,と。張 詰(あ)くる旦(あさ)に芳を候(うかが)う。芳 遽かに引きいれて登を視しむ。遙かに頂を見て曰わく,「此の頂骨有って,何の憂えあらんや」。因って脉を評すること五六息,復た曰わく,「錯(たが)わず,壽(よわい)且(まさ)に八十を踰(こ)えんとす」。乃ち方を留むること數十字。登に謂って曰わく,「此れを服さずとも亦た得たり」。後に登 庶子と爲り,年 九十に至る。
【注釋】021-2
○國史補:020を参照。いま『國史補』に見えず。『太平廣記』醫二では『酉陽雜爼』を出典とする。あるいは『太平廣記』では張萬福の前にある異人から發背方を伝授された白岑の出典(出國史補)と見間違えたか。 ○柳芳:(生卒年不詳),字仲敷,蒲州河東(今山西永濟)人,唐朝史學家。開元(713年-741年)末,柳芳擢進士第,由永寧尉直史館。肅宗上元(760年-761年)中,因出任安祿山偽燕官員而被貶黔中。後歷左金吾衛騎曹參軍、史館修撰,官至右司郎中、集賢殿學士。柳芳勤於著述,擅長史學、譜學,著作有《唐歷》《大唐宰相表》《永泰新譜》《國史》《姓系論》等。他所撰寫的皇室家譜《永泰新譜》為後來的唐文宗贊嘆不已,並特召其孫柳璟續寫。評價士族譜系所作的《姓系論》,成為後人研究唐代士族的重要史料。 ○郎中:職官名。秦、漢時,掌宮廷侍衛。隋代以後,為六部內各司之主管。/始於戰國。秦漢沿置。掌管門戶、車騎等事;內充侍衛,外從作戰。另尚書臺設郎中司詔策文書。晉武帝置尚書諸曹郎中,郎中為尚書曹司之長。隋唐迄清,各部皆設郎中,分掌各司事務,為尚書、侍郎之下的高級官員,清末始廢。 ○登:柳登(約730前後~822),字成伯,河東人,唐朝中期大臣、學者。他的父親柳芳是唐肅宗時的史官,曾作《唐歷》四十卷。柳登年少時嗜好學習,和弟弟柳冕都以學問淵博著稱。柳登直到六十多歲後才開始做官,多次升遷至膳部郎中。元和初年,擔任大理少卿,和刑部侍郎許孟容等七人一同奉詔刪定開元以後的敕書格式。後兩次升遷任右庶子,因衰老多病改任秘書監,但柳登沒有接受任命,改授右散騎侍郎後退休。長慶二年(822),柳登去世,年九十余歲,唐穆宗為此輟朝一天,追贈柳登為工部尚書。 ○張万福:唐代醫生。里貫欠詳。精於醫,嘗為郎中柳芳之子診病,預言此子無病,且日後可獲高壽。後果如其言,壽至九十。/張萬福(716年—805年),唐朝官員,魏州元城縣(今河北省大名縣)人。張萬福學騎射,十八歲時,從軍征渤海國有功,為將而還。唐代宗時歷任舒州、廬州、壽州三州刺史、都團練使、淮南節度副使。平定許杲、康自勸之亂,後赴關中防秋,因留宿衛。淄青節度使李正己反,召為濠州刺史,扼守渦口,保護運糧船隻,打通了江淮漕運之路。(その後,泗州刺史となる。)官至右金吾衛將軍,圖形凌煙閣。唐德宗想讓裴延齡為相,大臣守延英門進諫,唐德宗大怒。張萬福於是揚言:「朝廷有直臣,天下必太平矣。」張萬福當時已經八十歲,遍揖諸大臣,天下更推重他的名聲。貞元二十一年,以工部尚書、左散騎常侍致仕。當年五月去世,年九十歲。 ○初:甫、剛剛。~したばかり。 ○除:免掉舊官職,任命新官職。 ○泗州:北周置。隋廢。唐復置。治宿預。在今江蘇宿遷縣東南。尋移治臨淮。改曰臨淮郡。後復曰泗州。宋曰泗州臨淮郡。移治盱眙。在今安徽盱眙縣東北。元還治臨淮。清康熙時淪入洪澤湖。徙州治舊虹縣地。直隸安徽省。民國改爲泗縣。 ○故舊:故交舊友。舊交;舊友。 ○賀:慶祝。 ○具言:備言,詳細告訴。 ○故人:舊交;老友。 ○一顧:一看。語本《戰國策.燕策二》:「人有賣駿馬者,比三旦立市,人莫之知。往見伯樂曰:『臣有駿馬,欲賣之,比三旦立於市,人莫與言。願子還而視之,去而顧之,臣請獻一朝之賈。』伯樂乃還而視之,去而顧之,一旦而馬價十倍。」千里馬須遇到伯樂,才能顯現其珍貴。後以“一顧”喻受人引舉稱揚或提攜知遇。後比喻才能受人賞識、肯定。 ○詰旦:平明,清晨。/詰:明日的、次日的。 ○候:探望。看望;問候 [visit;send one's respects to]。『太平廣記』の現代語訳は「等候(待つ)」と訳すが,ここでは「たずねる,見舞う」と解するのが適切と思われる。 ○引:拉。領導、帶領。招致、招惹。 ○視:察看、觀察。 ○遥:「遙」の異体字。遠。 ○頂:頭的最上部。如:「頭頂」。 ○評脉:診脈。 ○𠋩:「復」の異体字。 ○不錯:好,不壞。 ○壽:長久、長命。年齡。 ○且:將、將要。 ○踰:「逾」の異体字。越過、超過。經歷、經過。 ○方:治病的藥單、配藥的單子。如:「藥方」、「處方」。 ○得:可以、能夠。快意、滿足。 ○庶子:職官名。太子宮官員之一。掌王族版籍。周代司馬的屬官。掌諸侯、卿大夫之庶子的教養等事。秦因之,置中庶子、庶子員。漢以後為太子屬官。兩晉、南北朝稱中庶子、庶子。隋、唐以後,改稱左右庶子。/『太平廣記』の現代語訳は「一般百姓」とするが,誤訳。
○『太平廣記』醫二・張萬福:柳芳為郎中,子登疾重。時名醫張萬福初除泗州,與芳故舊,芳賀之,具言子病。惟持故人一顧也。張詰旦候芳,芳遽引視登。遙見登頂曰:「有此頂骨,何憂也?」因診脈五六息。復曰:「不錯,壽且逾八十。」乃留芳數十字。謂登曰:「不服此亦得。」後登為庶子,年至九十。(出『酉陽雜爼』)
○【太平廣記譯文】柳芳是郎中,他的兒子柳登患了重病。當時名醫張萬福剛到泗州拜官授職,他與柳芳是老相識。柳芳前來祝賀,向他詳細陳述了兒子的病情,希望他能去給兒子治病。第二天,張萬福一大早就等候著柳芳。柳芳急急忙忙來了,領著張萬福去看兒子柳登。張萬福遠遠望著柳登的頭頂說:“他有這樣的頭骨,你擔什麼心?”說著便給柳登診了一會兒脈,又說:“不錯,他的壽數在八十以上。”於是給柳芳留下數十字的藥方,對柳登說:“不服這藥也可以。”後來柳登成為一般百姓,活到九十歲。(出自《酉陽雜俎》。)
識典古籍*******************************************************
《國史補》:柳芳爲郎中,子登疾重。時名醫張万福初除泗州,與芳故舊。
【AI譯文】
《国史补》记载:柳芳担任郎中时,他的儿子柳登病重。当时名医张万福刚被任命为泗州刺史,与柳芳是旧交。
【AI 1】『国史補』によると、柳芳が郎中(官職)を務めていた時、息子の柳登が重い病にかかっていた。当時、名医の張万福が泗州の刺史に任命されたばかりで、柳芳とは旧知の仲だった。
【AI 2】『国史補』によると、柳芳が郎中を務めていたとき、彼の息子・柳登が重い病にかかっていた。当時、名医の張万福がちょうど泗州の刺史に任命されたばかりで、柳芳とは旧知の仲だった。
芳賀之,具言子病,惟恃故人一顧也。
【AI譯文】
柳芳前去祝贺他,详细地说了自己儿子生病的事,只依靠老朋友去探望一下了。
【AI 1】柳芳は彼に祝辞を述べるため訪れ、自分の息子の病状について詳しく話し、旧友に頼る形で息子を診てもらうことになった。
【AI 2】柳芳は彼に祝賀の挨拶に行き、自分の息子が病気であることを詳しく話し、古くからの友人に診てもらうしかないと頼った。
張詰旦候芳,芳遽引視登,遥見頂曰:“有此頂骨,何憂也?”
【AI譯文】 ★AI日本語訳が疑問を呈するように,「张璪」「郭芳」は誤訳。
张璪第二天早晨等郭芳前来,郭芳就带着他去看张登,远远地指着张登的头顶说:‘有这样的头顶骨,你还有什么可担忧的呢?’
【AI 1】翌朝、張璪は郭芳(柳芳の別名か、または関係者)を待ち、郭芳は彼を連れて柳登を診察しに行った。遠くから柳登の頭頂部を指し、「これほどの頭蓋骨を持っているなら、何を心配することがあるのか?」と言った。
【AI 2】翌朝、張璪(張万福の別名または別人の可能性あり)は郭芳が来るのを待っていて、郭芳は彼を連れて柳登のもとへ行った。遠くから柳登の頭頂を指さして言った。「こんな頭の骨をしていて、何を心配することがあるのか?」と。
因評脉五六息,復曰:“不錯,壽且踰八十。”
【AI譯文】
于是诊断脉搏跳动了五六次呼吸的时间,又说:‘没错,寿命将要超过八十岁。’
【AI 1】脈を測り、呼吸五〜六回分の時間診た後、「間違いない、寿命は八十歳を超えるだろう」と断言した。
【AI 2】そして脈を診るのに五、六呼吸ほどの時間をかけ、「間違いない、寿命は八十歳を超えるだろう」と言った。
乃留方數十字,謂登曰:“不服此亦得。”
【AI譯文】
于是留下几十字的方子,对方登说:‘不服这个(方子上的药)也可以。’
【AI 1】そして数十文字程度の処方箋を残し、「この薬を飲まなくても大丈夫だ」と柳登に告げた。
【AI 2】数十字の処方箋を残して、「この薬を服用しなくてもよい」と柳登に言った。
後登爲庶子,年至九十。
【AI譯文】
后来柳登担任了庶子,活到了九十岁。
【AI 1】その後、柳登は庶子(役職)を務め、九十歳まで生きたという。
【AI 2】その後、柳登は庶子(高級官僚の補佐職)となり、九十歳まで生きた。
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