081 知喜勝悲恐邪容膏(豪韻・平) 31 二十五ウラ
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知喜勝悲、恐邪容膏。
(太素經曰、肺在志為憂、憂傷肺、喜勝悲、注曰、心喜為火、故喜勝憂悲也、 醫說曰、晋悼公病、求醫於秦伯、伯使醫緩治之、未至、公夢二豎子相謂曰、彼良醫也、懼傷我焉、将逃之、其一曰、我居肓之上、汝居膏之下、若我何、緩至、謂公曰、疾不可為也、在肓之上膏之下、攻之不可、達之不及、藥不至焉、不可為也、公曰、良醫也、厚禮而歸之、)
【訓み下し】
知喜勝悲、恐邪容膏。(喜びの悲しみに勝つを知り、邪の膏に容(い)るを恐る。)
『太素經』に曰わく、「肺は志に在りては憂いと為り、憂いは肺を傷(やぶ)り、喜びは悲しみに勝つ」。
注に曰わく、「心喜べば火と為る。故に喜びは憂い悲しみに勝つなり」。
『醫說』に曰わく、「晉の悼公病む。醫を秦伯に求む。伯 醫緩をして之を治せしむ。未だ至らず、公夢む。二(ふたり)の豎子(わらべ)相(たが)いに謂(かた)りあって曰わく、『彼れ良醫なり。懼(おそ)らくは我らを傷つけん。焉(いず)くにか將に之を逃れんとする』と。其の一(ひとり)曰わく、『我れ肓の上に居り、汝 膏の下に居らば、我らを若何(いかん)せん』と。緩至る。公に謂(むか)って曰わく、『疾(やまい)為(おさ)む可からず。肓の上と膏の下に在り。之を攻(おさ)むるも可(き)かず、之に達(はり)するも及ばず、藥至らず、為(おさ)む可からず』と。公曰わく、『良醫なり』と。厚く禮して之を歸(かえ)す」。
【注釋】
○容:含納。收留。 〇膏:註を下文を参照。
○太素經曰:出所未詳。
★参考:『素問』陰陽應象大論(05):「在藏爲肺,……在志爲憂,憂傷肺,喜勝憂」。
○醫說曰:『醫說』卷一・三皇歷代名醫・醫緩:「醫緩,春秋時秦人也,未詳其姓。晉悼【一本作「景」】公病,求醫於秦伯,伯使醫緩治之。未至,公夢二竪子相謂曰:彼良醫也,懼傷我,焉將逃之?其一曰:我居肓之上,汝居膏之下,若我何?緩至,謂公曰:疾不可為也,在肓之上・膏之下,攻之不可,達之不及(原注:達為鍼也),藥不至焉,不可為也。公曰:良醫也。厚禮而歸之(出『左傳』)」。
★『春秋左傳』成公傳十年:「晉侯……公疾病。求醫于秦。秦伯使醫緩為之。未至。公夢疾為二豎子曰。彼良醫也。懼傷我。焉逃之。其一曰。居肓之上。膏之下。若我何。醫至。曰。疾不可為也。在肓之上。膏之下。攻之不可。達之不及。藥不至焉。不可為也。公曰。良醫也。厚為之禮而歸之」。景公在位時。晉景公(?—公元前581年),姬姓,名獳,一名據,是中國春秋時期晉國第二十六代君主(公元前599年—前581年在位),晉文公之孫、晉成公之子,於公元前599年繼其父晉成公在位。 ○晋悼公:(前586年-前558年),姬姓,名周,一作糾,又名周子或孫周,是惠伯談(姬談)的小兒子,他的祖父桓叔捷(姬捷)是晉襄公的二兒子。他在堂叔晉厲公被弑後,被迎立為君。謚號為“悼”,爵位為侯,又稱“晉侯周”,簡稱“晉周”。 ○伯:古代封建制度裡,公、侯、伯、子、男等爵位的第三等。 ○醫緩:春秋時秦國良醫。 ○豎子:兒童。 ○相謂:交談;互相告語。 ○焉:文言疑問詞,怎麽,哪兒。/疑問代名詞。語氣詞,置句末。表示疑問。相當於「耶」、「呢」。/承接上文,以表示後果。相當於「乃」、「就」。 ○肓之上、汝居膏之下:『春秋左傳』疏:古今傳文皆以為「膏之下」,賈、服、何休諸儒等亦皆以為膏。雖凝者為脂,釋者為膏,其實凝者亦曰膏。故《內則》云「小切狼臅膏」,則此膏謂連心脂膏也。劉炫以為釋首者為膏,連心之脂不得稱膏。以為「膏」當為「鬲」。改易傳文,而規杜氏,非也」。 ○我:自稱。自稱己方。[me, us] ○不可:不可能。 ○為:『春秋左傳』注:「為猶治也」。 ○攻:治療。《周禮.天官.瘍醫》:「凡療瘍,以五毒攻之」。 ○達:『春秋左傳』注:「達,針」。 ○厚禮:價值昂貴的禮物。
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