齊書徐敏齊太常卿之範子代傳攻醫博
覽多藝隋開皇中爲駕部郎中
【訓み下し】012-2
『齊書』:徐敏〔行〕は,齊の太常卿 之範の子なり。代々傳えて醫を攻(おさ)めて,博覽多藝なり。隋の開皇中,駕部郎中と爲る。
【注釋】012-2
○齊書:南齊書。梁蕭子顯撰,五十九卷。二十四史之一。為南齊(479~502)之史,簡稱為「齊書」。『南齊書』に以下の文は,見つからないようだ。北齊(550~577)の史書も『齊書』と呼ばれたのであろうが,『齊書』に「隋の開皇(581~600)」年間のことが記されているのは,おかしい。/『醫說』は『隋書』を出典とする。ただ,正史の『隋書』には見えないようだ。 ○徐敏齊:『醫說』『中医大辞典』『中医人物词典』『中医文献学辞典』などによれば,隋代の醫家。祖籍東莞姑幕(今山東諸城),寄籍丹陽(今江蘇南京)。北周名醫徐之範之子。開皇(581-600)年間贈朝散大夫。/【訓み下し】は邵冠勇の「徐敏は,齊の」とするのが正しいとする説(关于《医说》及其校注。《山东中医药大学学报》 15卷, 1期: 44 - 47 (1991),また邵冠勇ら『歴代名医蒙求』35頁)にしたがった。なお百度百科「徐之范」によれば,徐之範の子で尚書「駕部郎中」となったのは,徐敏行であるので,「行」字を欠いていることになる。/百度百科:徐敏行(543-584年),字訥言,東莞郡姑幕縣(今山東安丘市石埠子鎮石埠子村)人。南梁到隋朝時期大臣、醫生,西陽王徐之範的兒子。世代行醫,博覽多藝。隋朝時期,擔任駕部郎中,交好晉王楊廣。開皇四年,去世,時年四十二歲,追贈朝散大夫。/徐敏行夫妻の合葬墓が1976年2月に山東博物館により発掘され,壁画が残されていた。 ○太常卿:太常寺卿是中國古代的一個官職名稱,屬於宗族祭祀的長官,原名奉常,起源於漢景帝時期。至南朝梁陳與北魏始稱太常卿,北齊稱太常寺卿,為太常寺的長官。 ○之範:徐之範(507~584)。南北朝北齊醫家。祖籍東莞姑幕(今山東諸城),寄籍丹陽(今江蘇南京)。徐之才弟,亦以醫聞名於當時。大寧二年(562年)任北齊尚藥典御。隋開皇(581-600)年間卒。 ○子:古時指子女,現專指兒子。 ○攻:『醫說』作「工」。 ○博覽:廣泛閱覽。廣博閱覽。 ○多藝:【多才多藝】具有多方面的才能和技藝。 ○隋:朝代名。(西元581~619)隋王楊堅篡北周,國號隋。至隋恭帝被廢,共計三十七年。 ○開皇:隋の文帝楊堅の治世に行われた年号。隋朝最初の年号。 581年 - 600年。 ○駕部郎中:唐朝中央官職,掌輿輦、車乘、傳驛、廄牧馬牛雜畜之籍。/駕部:官職名。掌輿輦、傳乘、郵驛、廄牧之事。魏晉尚書有駕部郎; 隋初改駕部侍郎,屬兵部。/郎中:職官名。秦、漢時,掌宮廷侍衛。隋代以後,為六部內各司之主管。/晉武帝置尚書諸曹郎中,郎中為尚書曹司之長。
○『隋故儀同西陽王徐君〔=徐之材〕墓誌銘』に「第二子敏行尚書駕部郎中」とある。
https://medieval-china.club/meetings/2021-07/7-30夜讀隋故儀同西陽王徐君墓誌銘。.pdf
○『醫說』卷一・三皇曆代名醫・徐敏齊:「徐敏齊,太常卿之範之子也。工醫,博覽多藝。開皇中,贈朝散大夫(出『隋書』)」。
○『醫說』卷一・三皇曆代名醫・徐之範:「徐之範,儀同大將軍・太常卿・恆山太守・嗣西陽王,即北齊之才之弟也。亦以醫術知名,官至太常卿,襲兄爵為西陽王。齊滅,入周,拜儀同大將軍(『後周書』)」。
識典古籍*******************************************************
《齊書》:徐敏,齊太常卿之範子,代傳攻醫,博覽多藝。隋開皇中,爲駕部郎中。
【AI譯文】
《南齐书》记载:徐敏是南齐太常卿徐之范的儿子,他家世代传承擅长医术,徐敏博览群书,多才多艺。隋朝开皇年间,徐敏担任驾部郎中。
【AI 1】『南斉書』には次のように記されている。徐敏は南斉の太常卿、徐之範の息子であった。彼の家系は代々医術に長け、その伝統を受け継いでいた。徐敏自身も学識豊かで、多方面に才を発揮した。隋の開皇年間には、彼は駕部郎中の職に就いた。
【AI 2】『南斉書』にはこう記されています。徐敏(じょびん)は南斉の太常卿・徐之范の息子であり、その家系は代々医術に優れていた。徐敏自身も書物を広く読み、多才で多芸な人物であった。隋の開皇年間には、徐敏は駕部郎中(がぶろうちゅう)という官職に任命された。
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