2025年9月19日金曜日

『歷代名醫蒙求』076-2

 『歷代名醫蒙求』076-2

    史記鄧訓爲護烏桓校尉羌胡恥病死每

    病臨困取刀自剌訓聞有病困者輒拘縛 

    束不與兵刃使醫藥療之愈者非一小大

    莫不感悅

    

    【訓み下し】076-2

    『史記』:鄧訓 護烏桓の校尉と爲る。羌胡は病みて死するを恥じ,每(つね)に病んで臨困するに,刀を取って自ら刺せり。訓 病んで困(くる)しむ者有るを聞けば,輒ち拘(とら)えて縛り束ね,兵刃を與えず,醫藥を使い之を療せしむ。愈ゆる者は一に非ず。小大 感悅せざる莫し。

    

  【注釋】076-2

 ○史記:003-1を参照。鄧訓は後漢の人であるので,出典を『史記』とするのは,誤りであろう。 ○鄧訓:鄧訓(40年―92年),字平叔,南陽郡新野縣(今河南省新野縣)人。東漢外戚大臣,高密侯鄧禹第六子,和熹皇后鄧綏的父親。鄧訓心懷大志,不愛文學。舉孝廉出身,初為郎中,施恩於人,禮賢下士,深得人心。建初三年(78年)出任謁者,監理通漕運之事,使得漢章帝停止浩大的工程,改用驢車運輸,節省巨額開支 ;同年率黎陽營兵駐守幽州狐奴縣抵御烏桓。建初六年(81年),升任護烏桓校尉,鎮守邊疆,鮮卑聽說他的威望,都不敢靠近邊塞。建初八年(82年)受累於梁扈,免官回家。 面對盧水胡反叛,授謁者、武威太守、護羌校尉,安撫招納羌胡各部。永元四年(92年),病死於任上,時年五十三歲。漢和帝時期,憑借女兒成為皇后,獲封平壽侯,謚號為敬。 ○護烏桓校尉:護烏桓校尉(ごうがんこうい)は、中国の前漢に設置された官職で、おもに烏桓族を管轄する軍政務官。漢にならい、魏も設置した。秩石は二千石。wiki. ○臨困:猶臨終。 ○剌:「刺」の異体字。 ○病困:猶言病篤。為疾病所困擾。 ○輒:每、總是。即、就。 ○拘:逮捕、扣押。 ○縛束:綁縛約束。捆綁。 ○兵刃:兵器。泛稱武器。『太平御覽』作「兵刀」。 ○醫藥:治療與藥品。醫術與藥物。醫治,治療。 ○非一:不一。 ○小大:小的和大的。有時猶云一切、所有。特指小孩和大人。意謂全家。 ○莫不:皆,沒有一個不。 ○感悅:感動喜悅。

     ○『東觀漢記』傳四:「鄧訓,字平叔,謙恕下士,無貴賤見之如舊,朋友子往來門內,視之如子……鄧訓為護羌校尉,諸胡皆喜。羌俗,恥病死,每病臨困,輒持刀以自刺。訓聞有困病者,輒拘持束縛,不與兵刃,使醫藥療治,愈者非一,小大莫不感悅……」。

     ○『太平御覽』職官部四十・諸校尉・護羌校尉:「『東觀漢記』曰︰鄧訓爲護羌校尉,諸胡皆喜,義從。羌胡俗恥病死,每疾臨困,輒以刀自刺。訓聞其困者,輒拘持纏束,不與兵刀,使醫藥療理,愈者非一,小大莫不感悅……」。

     ○『太平御覽』職官部四十・諸校尉・護烏桓校尉:「『續漢書』曰︰護烏桓校尉一人,主烏桓校尉,比二千石」。

識典古籍*******************************************************

史記:鄧訓爲護烏桓校尉,羌胡恥病死,每病臨困,取刀自剌。

    【AI譯文】

『史记』记载:邓训担任护乌桓校尉时,羌胡之人以病死为耻辱,每当病重濒危的时候,就拿刀子自杀。

    【AI 1】『史記』によると、鄧訓が護烏桓校尉を務めていた際、羌胡の人々は病死を恥とし、重病に陥ると刀で自ら命を絶つことが常であった。

    【AI 2】『史記』には、鄧訓が護烏桓校尉を務めていた時、羌胡の人は病死を恥辱とし、病気が重くなるたびにナイフで自殺したと記されている。

訓聞有病困者,輒拘縛束,不與兵刃,使醫藥療之,愈者非一,小大莫不感悅。

    【AI譯文】

邓训听说有生病并且处境艰难的人,就把他们拘捕捆绑起来,不给他们兵器,派医生用医药给他们治疗,被治愈的人不止一个,大人小孩没有不感激喜悦的。

    【AI 1】鄧訓は、病に苦しむ者たちがいると聞くと、彼らを拘束して武器を与えず、医師に治療を施させた。その結果、命を救われた者は少なくなく、大人も子供も皆、鄧訓の助けに深く感謝し喜んだという。

    【AI 2】鄧訓は、病気で困難な状況にある人々がいると聞くと、彼らを捕らえて縛り、武器を持たせず、医師を派遣して薬で治療させた。治療を受けて回復した者は一人や二人ではなく、大人も子どもも皆、感謝して喜んだ。

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