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2014年1月1日水曜日
黃帝内經素問講義序
黃帝内經素問講義序
葢自天地闢而民生蠢〃焉聖人出而後異於物於
是垂衣裳造書契作為舟車網罟弧矢杵臼之器載
在易經不可誣也凡可以前民用者聖人無不為之
而況於醫乎夫隂陽氣血之微藏府經衇之詳辨虛
實於毫釐判死生於分寸其用心之難又豈直舟車
網罟弧矢杵臼而已哉吾固有以知内經之作成於
軒轅岐伯無疑也且夫聖人之教坦如大路易見易
知非敢有佶屈聱牙之詞而歴年久遠竹帛相傳授
受之失真與副墨之遞譌勢所必然不足為怪而續
一ウラ
鳧斷鶴亦不能無焉則古經之所以難講于今矣昔
者晉皇甫謐撰甲乙梁全元起著訓解唐有楊王二
家今全氏不傳楊氏佚而復存我 邦講此經者曩
有芳邨恂益慄稻葉良仙通達而至寛政間驪恕公
劉廉夫二先生出顓以王氏為本廉夫先生著有素
問識近日劉茝庭先生有紹識之作寛自幼好讀此
經一奉楊王二家及素問二識為圭臬而間有一二
愚管得失互存則講誦之際或難乎條析於是竊俲
昔人經解之體捃拾衆說汰瑕擷瑜釐成一書題曰
素問講義若夫馬張以下諸家則概循文解釋遂不
二オモテ
出王氏之窠臼故所引僅止數條吁寛何人以前哲
諸賢猝不易讀之經妄為刪述殆韓愈所謂不自量
者然思古之人猶今之人今之病即古之病也聖人
濟世愍民之意正大光明炳如觀火豈何必事隱澁
艱蹇使人難通曉者也哉葢鑽研日久而益知聖經
之所論同布帛菽粟不可一日離也今就經釋經不
相繞繳雖未能綜核妙理剖析義蘊覩之從來箋解
庶幾切於日用講肆之間歟然而經義鴻淵匪區〃
管窺蠡測所能得則此書亦一家私言不敢公然問
世聊傳諸子弟云爾
二ウラ
嘉永七年甲寅春王正月人日侍醫法眼兼醫學教
諭喜多邨直寛士栗識于江戸學訓堂
【訓讀】
黃帝内經素問講義序
蓋し天地闢(ひら)きし自り、而して民生ずること蠢蠢たり。聖人出で、而る後に物を異にす。
是(ここ)に於いて衣裳を垂れ、書契を造り、舟車·網罟·弧矢·杵臼の器を作為す。載せて
易經に在れば、誣(あざむ)く可からざるなり。凡そ以て民の用に前(さき)んずる可き者は、聖人、之を為さざる無し。
而して況んや醫をや。夫れ陰陽·氣血の微、藏府·經脈の詳、虛
實を毫釐に辨じ、死生を分寸に判(わか)つ。其の心を用いるの難きは、又た豈に直(ただ)に舟車·
網罟·弧矢·杵臼のみならんや。吾れ固(もと)より以(ゆえ)有って内經の作の、
軒轅·岐伯に成ること疑い無きを知るなり。且つ夫れ聖人の教え、坦(たい)らかなること大路の如し。見易く
知り易く、敢えて佶屈·聱牙の詞有ること非ず。而れども歴年久遠、竹帛相傳え、之を授
受して真を失い、副墨の譌を遞(つた)うるに與(あずか)るは、勢い必然とする所にして、怪しむと為すに足らず。而も
一ウラ
鳧を續ぎ鶴を斷つも、亦た無きこと能わず。則ち古經の今に講ずること難き所以なり。
昔者(むかし)晉の皇甫謐、甲乙を撰し、梁の全元起、訓解を著し、唐に楊·王二
家有り。今ま全氏傳わらず、楊氏佚して復た存す。我が 邦、此の經を講ずる者、曩(さき)に
芳邨恂益慄、稻葉良仙通達有り。而して寛政の間に至って、驪恕公と
劉廉夫の二先生出で、顓(もつぱ)ら王氏を以て本と為す。廉夫先生の著に素
問識有り、近日劉茝庭先生に紹識の作有り。寛、幼き自り好んで此の
經を讀み、一に楊·王の二家、及び素問二識を奉じて、圭臬と為す。而して間ま一二
愚管有り、得失互いに存すれば、則ち講誦の際、或いは條析し難し。是(ここ)に於いて竊(ひそ)かに
昔人の經解の體に俲(なら)い、衆說を捃拾し、瑕を汰(よな)ぎ瑜を擷(つ)み、釐(おさ)めて一書と成す。題して
素問講義と曰う。夫(か)の馬·張以下の諸家の若きは、則ち概(おおむ)ね文に循(したが)って解釋し、遂に
二オモテ
王氏の窠臼を出でず。故に引く所、僅かに數條に止むるのみ。吁(ああ)、寛、何人ぞ、前哲·
諸賢も、猝かに讀み易からざるの經を以て、妄りに刪述を為す。殆ど韓愈の謂う所の自ら量らざる
者なり。然れども古を思うの人は猶お今の人のごとし。今の病は即ち古の病なり。聖人
世を濟(すく)い民を愍(あわれ)むの意、正大光明にして、炳(あき)らかなること火を觀るが如し。豈に何ぞ必ずしも隱澁
艱蹇を事として、人をして通曉し難からしむる者ならんや。蓋し鑽研すること日久し。而して益ます聖經
の論ずる所を知り、布帛·菽粟と同じく、一日も離るる可からざるなり。今ま經に就きて經を釋し、
相い繞繳せず、未だ妙理を綜核し、義蘊を剖析すること能わずと雖も、之を從來の箋解に覩れば、
日用講肆の間に切なるに庶幾(ちか)からんか。然り而して經義は鴻淵にして、區區として
管窺蠡測して能く得る所に匪(あら)ざれば、則ち此の書も亦た一家の私言、敢えて公然として
世に問わず、聊か諸(これ)を子弟に傳うと云爾(しかいう)。
二ウラ
嘉永七年甲寅春王正月人日、侍醫法眼兼醫學教
諭喜多邨直寛士栗、江戸學訓堂に識(しる)す。
【注釋】
○葢:「蓋」の異体。 ○闢:開墾する。開天闢地。 ○蠢蠢:虫の蠕動するさま。 ○衣裳:衣服。上半身の服(衣)と下半身の服(裳)。 ○書契:文字。『易經』繫辭下:「上古結繩而治、後世聖人易之以書契」。 ○作為:つくる。 ○網罟:魚や獣をとらえるあみ。 ○弧矢:弓と箭。ゆみとや。 ○杵臼:きねとうす。 ○易經:書名。伏羲が卦をつくり、文王が繫辞し、孔子が十翼をつくったとされる。 ○隂:「陰」の異体。 ○衇:「脈」の異体。 ○毫釐:極めて微小な数。 ○分寸:微小のものの比喩。 ○用心:心をつくす。留意する。 ○有以:有因。有道理。有為。有何。 ○内經:『黄帝内経』。 ○軒轅:黄帝の名号。 ○岐伯:黄帝の臣。 ○坦:ひろく平ら。平坦。 ○佶屈聱牙:曲りくねっている。文章が晦渋で、読んでいてすらすら口にのぼらない。意味を理解するのに苦労する。 ○竹帛:簡冊と縑素(書写用の白絹)。古代では書写材料として用いられた。引伸して書籍をいう。 ○副墨:文字。 ○遞:つたえる。たがいに。かわる。 ○譌:過誤。あやまり。 ○勢所必然:情勢として必然的な傾向。
一ウラ
○續鳧斷鶴:自然の本性に反する比喩。ここでは、無理なことをするたとえであろう。『莊子』駢拇:「長者不為有餘、短者不為不足、是故鳧脛雖短、續之則憂、鶴脛雖長、斷之則悲」。 ○晉皇甫謐:215-282年、初名は靜、字は士安、玄晏先生と号す。『素問』『鍼経』『明堂経』をもとに『鍼灸甲乙経』を撰す。他に『帝王世紀』『高士傳』『玄晏春秋』等の撰あり。 ○梁全元起:南朝の齊梁ころのひと。『南史』王僧儒傳に「金(まま)元起」が、王僧儒に砭石について質問する記事あり。 ○訓解:『素問』の一番早い注釈書。佚。林億らの新校正注を参照。 ○唐有楊王二家:楊上善と王冰。 ○楊氏佚而復存:楊上善『黄帝内経太素』は、八世紀ごろに日本に伝わったが、しだいにその存在が知られなくなり、江戸末期に缺卷があるとはいえ、現存することが知られた。 ○芳邨恂益慄:名古屋玄医の門人。京都のひと。恂益は夭仙子・五雨子と号す。『内経綱紀』『二火辨妄』などを著わす。子の恂益に『黄帝内経素問大伝』あり。 ○稻葉良仙通達:『素問研』の撰者。他に『三焦営衛論』(1762)、『方伎則説』(1776)などあり。良仙は号。法橋。(石田秀実先生『素問研』解説) ○寛政:1789年~1801年。 ○驪恕公:目黒道琢。道琢は会津柳津(やないづ)の畠山氏を祖とする豪農の家に生まれた。名は尚忠(なおただ)、字は恕公(じょこう)、号は飯渓(はんけい)。江戸に出て曲直瀬玄佐(まなせげんさ)(7代道三[どうさん])の門に入り、塾頭となる。松平定信(まつだいらさだのぶ)の信任を受けて医学館の教授に招かれ34年にわたって医経を講義。考証医学の素地を作った(『日本漢方典籍辞典』)。 ○劉廉夫:多紀元簡(もとやす)。元簡の通称は安清(あんせい)、のち安長(あんちょう)、字は廉夫(れんぷ)、号は桂山(けいざん)。井上金峨(いのうえきんが)に儒を、父の多紀元悳(もとのり)に医を学んだ。松平定信の信任を得て寛政2(1790)年、奥医師・法眼に進んだ。翌年、躋寿館(せいじゅかん)が幕府直轄の医学館となるにともない、助教として幕府医官の子弟を教育。同11年には御匙(おさじ)(将軍侍医)となったが、享和元年寄合医師におとされ、文化7(1810)年奥医師に復したが、この年没した(『日本漢方典籍辞典』)。 ○顓:「専」に通ず。 ○素問識:『素問』の注釈書。全8巻。文化3(1806)年自序。没後の天保8(1837)年刊。『素問』の考証学研究のスタンダード。『聿修堂医学叢書(いっしゅうどういがくそうしょ)』(1884)や『皇漢医学叢書』に収められ、早くに中国でも知られた。廖平『六訳館(りくやくかん)叢書』にも少なからぬ影響を与えている。かつて影印本(績文堂、1981)がある。別に元簡の口述を筆記した『素問記聞(そもんきぶん)』(写本)という書もある(『日本漢方典籍辞典』)。 ○劉茝庭先生有紹識之作:『素問紹識』。多紀元堅(たきもとかた)(1795~1857)の著になる『素問』の注釈書。全4巻。弘化3(1846)年自序。「紹識」とは父多紀元簡(もとやす)の『素問識(そもんし)』を紹す(継ぐ・承ける)の意で、『素問識』の時点では未発見であった仁和寺本『太素』をはじめとする資料を用い、『素問識』を補翼する目的で執筆されたものである。未刊で写本として伝えられたが、その1写本が中国に渡って『皇漢医学叢書』に活字収録された。石原明(いしはらあきら)旧蔵本(小島宝素[こじまほうそ]手沢本)が『黄帝内経古注選集』に影印収録され、さらに自筆稿の最善本(大阪大学懐徳堂文庫本)の影印本(北里東医研医史研、1996)、またそれによる活字校訂本(日本内経学会、1996)が出版されている。なお、本書の前段階となった元堅の著書に『素問参楊(そもんさんよう)』(新発現の楊上善注を参ずるという意)なる書もある(『日本漢方典籍辞典』)。 ○此經:『素問』。 ○一:もっぱら。終始。 ○奉:尊重する。 ○素問二識:『素問識』と『素問紹識』。 ○圭臬:日時計。引伸して信奉して依拠する基準とするもの。 ○愚管:浅はかな見解。おろかな管見。謙遜語。 ○得失互存:得失(適当と不適当)相半ばする。 ○講誦:講授し読誦する。 ○條析:緻密に分析する。 ○竊:自己の見解が不確定であることを指して用いる謙遜語。 ○俲:まねる。 ○經解:経義を解釈する書。儒教の経典を解釈する著作。『皇清經解』『通志堂經解』などあり。 ○捃拾:収集する。 ○汰:無用のものを洗いのぞく。淘汰する。 ○瑕:あやまち、欠点。 ○擷:摘み取る。 ○瑜:美い玉。美徳。「瑕」と対をなして「すぐれた点」。 ○若夫:~に関しては。 ○馬張:馬玄台『素問註証発微』。張介賓『類経』。
二オモテ
○窠臼:一度出来あがって変わらない規格。決まりきったやり方。 ○前哲:前代の聡明で智慧あるひと。 ○刪述:著述する。孔子は『書』を序し『詩』を刪したと伝えられる。また『論語』では「述べて作らず」という。これより、著述することを「刪述」という。劉勰『文心雕龍』宗經:「自夫子刪述,而大寶咸耀」。 ○韓愈:中国、唐代中期の文学者、思想家、政治家。字は退之。郡望によって韓昌黎というが、実は河内南陽(河南省修武県)の人。最終官によって韓吏部といい、諡(おくりな)によって韓文公と呼ぶ。貞元8年(792)の進士。監察御史のとき、京兆尹李実を弾劾し、かえって連州陽山県(広東省)令に左遷、のち、中央に復帰し、中書舎人などを経て、817年(元和12)、地方軍閥呉元済討伐の行軍司馬となり、その功によって刑部侍郎となったが、憲宗が仏舎利を宮中に迎えたのに反対したため、再び潮州(広東省)刺史に左遷された(『世界大百科事典』第2版)。 ○不自量:韓愈『調張籍』:「蚍蜉撼大樹、可笑不自量」。 ○濟世:世の人をたすける。 ○愍:うれう。 ○正大光明:光明正大。公正無私。 ○炳如觀火:明若觀火。非常にはっきりしている。 ○隱:かくれてあらわれない。隱蔽。隱密。隱慝。 ○澁:文が難解。晦渋。 ○艱:困難。けわしい。艱澀(理解しがたいことばの形容)。 ○蹇:艱難。すらすら進まない。 ○鑽研:澈底的に深く研究する。 ○日久:時間が長い。 ○聖經:『黄帝内経』(素問)。 ○布帛菽粟:「布帛」は、衣服のための材料の総称。「菽粟」は、豆や穀物などの日常の食物。平常のものではあるが、一日として欠くべからざるもの。 ○繞繳:繳繞。かかわりまつわる。 ○綜核:まとめあつめて考える。総合的に考察する。 ○妙理:精微玄妙なる道理。 ○剖析:分析する。理解する。 ○義蘊:含意。意味の奥深いところ。 ○從來:以前から今まで。 ○箋解:箋注。古書の注解。 ○庶幾:期待する。 ○切:切実。密接。 ○日用:日常生活にもとめられる。日常的につかう。 ○講肆:講肄。講義学習。 ○然而:逆接の接続詞。 ○經義:経書の意味。 ○鴻:広大。 ○淵:深い。 ○區區:微小な。ちいさい。言うに足りない。 ○管窺蠡測:管を用いて天を窺い、蠡(ひさご)で海を測る。見識の浅薄なたとえ。 ○一家私言:個人的な見解。 ○問世:著作物を出版する。 ○云爾:語末の助詞。かくのごときのみ。
二ウラ
○嘉永七年甲寅:1854年。 ○春王:正月。『春秋左氏傳』隱公元年:「元年春 王正月」。 ○人日:正月七日。 ○侍醫:幕府医官。 ○法眼:法印につぐ地位。 ○醫學教諭:医学館の重立(おもだつ)世話役。 ○喜多邨直寛士栗:きたむらただひろ(1804~76)。直寛は幕府医官喜多村槐園(かいえん)の長子で江戸生まれ。字は士栗(しりつ)、通称安斎(あんさい)のち安正(あんせい)、号は栲窓(ごうそう)のち香城(こうじょう)。儒を安積艮斎(あさかごんさい)に学び、江戸医学館の重職に就き、法眼(ほうげん)の位に進んだが、安政4(1857)年故あって辞し、以後、古医籍を研究し、数々の校訂出版と著述活動を行った。明治時代に活躍した栗本鋤雲(くりもとじょうん)はその実弟。/『黄帝内経素問講義』:『素問』の注解書。全12巻。嘉永7年(1854)年成。同著者の『素問剳記(そもんとうき)』の成果を拡張し、その3年後、直寛51歳時に脱稿したもの。『太素』をはじめとする諸資料を用い、先人の業績を顕彰しつつ継承。考証学的『黄帝内経』研究書に属するが、直寛独自の個性も反映されており、多紀(たき)氏に対する気概を感じさせる。2、3の写本が伝えられるが、先年、著者自筆本(東北大狩野本)が影印出版された(オリエント出版社、1987)。『日本漢方典籍辞典』/また詳しくは『近世漢方医学書集成』88の長谷川弥人先生、および『東洋医学古典注釈選集』4の石田秀実先生の解説を参照。 ○學訓堂:直寛の書堂。
(跋)
本邦天明寛政間講素問者稱芳邨恂益慄稻
葉良仙通達驪恕公忠劉廉夫元簡而恂益有
綱紀予未見良仙有素問研恕公別無成書然
一醫官家弆其手澤訂本標記于次註上下行
欄之際朱墨爛然予嘗貸覽之後讀劉廉夫素問
識援据浩博極爲精覈而迨究其書則知原于恕
公者十之七出於良仙者十之二其間亦必有
採于恂益者是予所不知也而廉夫書中不一
語及此豈魏文所謂自古文人相忌憚者歟而
恐前哲之苦心或泯没不傳是可惋惜而已甲
寅秋仲予草素問講義而成因誌斯語於筴尾
後之讀者亦或有所稽攷乎
嘉永七年八月十九日三街拙者直寛
【訓讀】
本邦、天明·寛政の間、素問を講ずる者、芳邨恂益慄、稻
葉良仙通達、驪恕公忠、劉廉夫元簡と稱す。而して恂益に
綱紀有れども、予未だ見ず。良仙に素問研有り。恕公別に成書無し。然れども
一醫官の家、其の手澤の訂本を弆し、次註を上下の行
欄の際に標記し、朱墨爛然たり。予嘗て之を貸覽す。後に劉廉夫の素問
識を讀むに、援据浩博、極めて精覈を爲す。而れども其の書を究むるに迨(およ)んで、則ち知る、恕
公に原(もと)づく者は十に七、良仙に出づる者は十に二なるを。其の間にも亦た必ず
恂益に採る者有らん。是れ予の知らざる所なり。而るに廉夫、書中に一
語も此れに及ばざるは、豈に魏文謂う所の古(いにしえ)自り文人の相い忌憚する者ならんや。而して
恐らくは前哲の苦心、或いは泯没して傳わらず。是れ惋惜す可きのみ。甲
寅秋仲、予、素問講義を草して成る。因って斯の語を筴尾に誌(しる)す。
後の讀者も亦た或いは稽攷する所有らんか。
嘉永七年八月十九日、三街拙者直寛
【注釋】
○本邦:我が国。 ○天明:1781年~1789年。 ○寛政:1789年~1801年。 ○綱紀:『内経綱紀』。 ○素問研:オリエント出版社『黄帝内経研究叢書』所収。 ○成書:書物として成っているもの。書物。 ○弆:収蔵する。 ○手澤:先人の手垢のついたもの。先人がじかに書き加えたもの。 ○次註:王冰注。 ○朱墨爛然:朱筆と墨筆で評点をつけているのが鮮明である。熱心に読書にはげんださまを形容するのに用いる表現。 ○貸覽:借りて読む。 ○劉廉夫:多紀元簡。 ○援据:援據。援引依據。援用し拠り所とするもの。引証。 ○浩博:範囲が広く数が多い。 ○精覈:くわしく究明し、たしかである。 ○究:研究する。調査する。 ○十之七:十分の七。 ○魏文所謂自古文人相忌憚者歟:『梁書』列傳第四十四/文學下/顏協:「陳吏部尚書姚察曰、魏文帝稱古之文人、鮮能以名節自全(陳吏部尚書姚察曰く、魏の文帝、古の文人、能く名節〔名誉と節操〕を以て自ら全うすること鮮しと稱す、と)」。このことをいうか。/なお、喜多村直寛は、『素問箚記』の序において、銭大昕『廿二史考異』の序のことばをもちいて、剽窃の問題に言及している。 ○前哲:前代の賢者。 ○泯没:消失する。消滅する。 ○惋惜:嘆き惜しむ。かなしい。 ○甲寅:嘉永七年。1854年。 ○秋仲:陰暦八月。 ○草:起稿する。草稿をつくる。 ○筴尾:書冊の末。「筴」は「策(冊)」に同じ。 ○稽攷:考える。考証する。「攷」は「考」の異体。 ○三街:直寛は市ヶ谷御門内でうまれた。現在の市ヶ谷駅から田安門へ向かう靖国通りを三番町通りといったという。「三番町」を唐風に「三街」と表記したのであろう。
葢自天地闢而民生蠢〃焉聖人出而後異於物於
是垂衣裳造書契作為舟車網罟弧矢杵臼之器載
在易經不可誣也凡可以前民用者聖人無不為之
而況於醫乎夫隂陽氣血之微藏府經衇之詳辨虛
實於毫釐判死生於分寸其用心之難又豈直舟車
網罟弧矢杵臼而已哉吾固有以知内經之作成於
軒轅岐伯無疑也且夫聖人之教坦如大路易見易
知非敢有佶屈聱牙之詞而歴年久遠竹帛相傳授
受之失真與副墨之遞譌勢所必然不足為怪而續
一ウラ
鳧斷鶴亦不能無焉則古經之所以難講于今矣昔
者晉皇甫謐撰甲乙梁全元起著訓解唐有楊王二
家今全氏不傳楊氏佚而復存我 邦講此經者曩
有芳邨恂益慄稻葉良仙通達而至寛政間驪恕公
劉廉夫二先生出顓以王氏為本廉夫先生著有素
問識近日劉茝庭先生有紹識之作寛自幼好讀此
經一奉楊王二家及素問二識為圭臬而間有一二
愚管得失互存則講誦之際或難乎條析於是竊俲
昔人經解之體捃拾衆說汰瑕擷瑜釐成一書題曰
素問講義若夫馬張以下諸家則概循文解釋遂不
二オモテ
出王氏之窠臼故所引僅止數條吁寛何人以前哲
諸賢猝不易讀之經妄為刪述殆韓愈所謂不自量
者然思古之人猶今之人今之病即古之病也聖人
濟世愍民之意正大光明炳如觀火豈何必事隱澁
艱蹇使人難通曉者也哉葢鑽研日久而益知聖經
之所論同布帛菽粟不可一日離也今就經釋經不
相繞繳雖未能綜核妙理剖析義蘊覩之從來箋解
庶幾切於日用講肆之間歟然而經義鴻淵匪區〃
管窺蠡測所能得則此書亦一家私言不敢公然問
世聊傳諸子弟云爾
二ウラ
嘉永七年甲寅春王正月人日侍醫法眼兼醫學教
諭喜多邨直寛士栗識于江戸學訓堂
【訓讀】
黃帝内經素問講義序
蓋し天地闢(ひら)きし自り、而して民生ずること蠢蠢たり。聖人出で、而る後に物を異にす。
是(ここ)に於いて衣裳を垂れ、書契を造り、舟車·網罟·弧矢·杵臼の器を作為す。載せて
易經に在れば、誣(あざむ)く可からざるなり。凡そ以て民の用に前(さき)んずる可き者は、聖人、之を為さざる無し。
而して況んや醫をや。夫れ陰陽·氣血の微、藏府·經脈の詳、虛
實を毫釐に辨じ、死生を分寸に判(わか)つ。其の心を用いるの難きは、又た豈に直(ただ)に舟車·
網罟·弧矢·杵臼のみならんや。吾れ固(もと)より以(ゆえ)有って内經の作の、
軒轅·岐伯に成ること疑い無きを知るなり。且つ夫れ聖人の教え、坦(たい)らかなること大路の如し。見易く
知り易く、敢えて佶屈·聱牙の詞有ること非ず。而れども歴年久遠、竹帛相傳え、之を授
受して真を失い、副墨の譌を遞(つた)うるに與(あずか)るは、勢い必然とする所にして、怪しむと為すに足らず。而も
一ウラ
鳧を續ぎ鶴を斷つも、亦た無きこと能わず。則ち古經の今に講ずること難き所以なり。
昔者(むかし)晉の皇甫謐、甲乙を撰し、梁の全元起、訓解を著し、唐に楊·王二
家有り。今ま全氏傳わらず、楊氏佚して復た存す。我が 邦、此の經を講ずる者、曩(さき)に
芳邨恂益慄、稻葉良仙通達有り。而して寛政の間に至って、驪恕公と
劉廉夫の二先生出で、顓(もつぱ)ら王氏を以て本と為す。廉夫先生の著に素
問識有り、近日劉茝庭先生に紹識の作有り。寛、幼き自り好んで此の
經を讀み、一に楊·王の二家、及び素問二識を奉じて、圭臬と為す。而して間ま一二
愚管有り、得失互いに存すれば、則ち講誦の際、或いは條析し難し。是(ここ)に於いて竊(ひそ)かに
昔人の經解の體に俲(なら)い、衆說を捃拾し、瑕を汰(よな)ぎ瑜を擷(つ)み、釐(おさ)めて一書と成す。題して
素問講義と曰う。夫(か)の馬·張以下の諸家の若きは、則ち概(おおむ)ね文に循(したが)って解釋し、遂に
二オモテ
王氏の窠臼を出でず。故に引く所、僅かに數條に止むるのみ。吁(ああ)、寛、何人ぞ、前哲·
諸賢も、猝かに讀み易からざるの經を以て、妄りに刪述を為す。殆ど韓愈の謂う所の自ら量らざる
者なり。然れども古を思うの人は猶お今の人のごとし。今の病は即ち古の病なり。聖人
世を濟(すく)い民を愍(あわれ)むの意、正大光明にして、炳(あき)らかなること火を觀るが如し。豈に何ぞ必ずしも隱澁
艱蹇を事として、人をして通曉し難からしむる者ならんや。蓋し鑽研すること日久し。而して益ます聖經
の論ずる所を知り、布帛·菽粟と同じく、一日も離るる可からざるなり。今ま經に就きて經を釋し、
相い繞繳せず、未だ妙理を綜核し、義蘊を剖析すること能わずと雖も、之を從來の箋解に覩れば、
日用講肆の間に切なるに庶幾(ちか)からんか。然り而して經義は鴻淵にして、區區として
管窺蠡測して能く得る所に匪(あら)ざれば、則ち此の書も亦た一家の私言、敢えて公然として
世に問わず、聊か諸(これ)を子弟に傳うと云爾(しかいう)。
二ウラ
嘉永七年甲寅春王正月人日、侍醫法眼兼醫學教
諭喜多邨直寛士栗、江戸學訓堂に識(しる)す。
【注釋】
○葢:「蓋」の異体。 ○闢:開墾する。開天闢地。 ○蠢蠢:虫の蠕動するさま。 ○衣裳:衣服。上半身の服(衣)と下半身の服(裳)。 ○書契:文字。『易經』繫辭下:「上古結繩而治、後世聖人易之以書契」。 ○作為:つくる。 ○網罟:魚や獣をとらえるあみ。 ○弧矢:弓と箭。ゆみとや。 ○杵臼:きねとうす。 ○易經:書名。伏羲が卦をつくり、文王が繫辞し、孔子が十翼をつくったとされる。 ○隂:「陰」の異体。 ○衇:「脈」の異体。 ○毫釐:極めて微小な数。 ○分寸:微小のものの比喩。 ○用心:心をつくす。留意する。 ○有以:有因。有道理。有為。有何。 ○内經:『黄帝内経』。 ○軒轅:黄帝の名号。 ○岐伯:黄帝の臣。 ○坦:ひろく平ら。平坦。 ○佶屈聱牙:曲りくねっている。文章が晦渋で、読んでいてすらすら口にのぼらない。意味を理解するのに苦労する。 ○竹帛:簡冊と縑素(書写用の白絹)。古代では書写材料として用いられた。引伸して書籍をいう。 ○副墨:文字。 ○遞:つたえる。たがいに。かわる。 ○譌:過誤。あやまり。 ○勢所必然:情勢として必然的な傾向。
一ウラ
○續鳧斷鶴:自然の本性に反する比喩。ここでは、無理なことをするたとえであろう。『莊子』駢拇:「長者不為有餘、短者不為不足、是故鳧脛雖短、續之則憂、鶴脛雖長、斷之則悲」。 ○晉皇甫謐:215-282年、初名は靜、字は士安、玄晏先生と号す。『素問』『鍼経』『明堂経』をもとに『鍼灸甲乙経』を撰す。他に『帝王世紀』『高士傳』『玄晏春秋』等の撰あり。 ○梁全元起:南朝の齊梁ころのひと。『南史』王僧儒傳に「金(まま)元起」が、王僧儒に砭石について質問する記事あり。 ○訓解:『素問』の一番早い注釈書。佚。林億らの新校正注を参照。 ○唐有楊王二家:楊上善と王冰。 ○楊氏佚而復存:楊上善『黄帝内経太素』は、八世紀ごろに日本に伝わったが、しだいにその存在が知られなくなり、江戸末期に缺卷があるとはいえ、現存することが知られた。 ○芳邨恂益慄:名古屋玄医の門人。京都のひと。恂益は夭仙子・五雨子と号す。『内経綱紀』『二火辨妄』などを著わす。子の恂益に『黄帝内経素問大伝』あり。 ○稻葉良仙通達:『素問研』の撰者。他に『三焦営衛論』(1762)、『方伎則説』(1776)などあり。良仙は号。法橋。(石田秀実先生『素問研』解説) ○寛政:1789年~1801年。 ○驪恕公:目黒道琢。道琢は会津柳津(やないづ)の畠山氏を祖とする豪農の家に生まれた。名は尚忠(なおただ)、字は恕公(じょこう)、号は飯渓(はんけい)。江戸に出て曲直瀬玄佐(まなせげんさ)(7代道三[どうさん])の門に入り、塾頭となる。松平定信(まつだいらさだのぶ)の信任を受けて医学館の教授に招かれ34年にわたって医経を講義。考証医学の素地を作った(『日本漢方典籍辞典』)。 ○劉廉夫:多紀元簡(もとやす)。元簡の通称は安清(あんせい)、のち安長(あんちょう)、字は廉夫(れんぷ)、号は桂山(けいざん)。井上金峨(いのうえきんが)に儒を、父の多紀元悳(もとのり)に医を学んだ。松平定信の信任を得て寛政2(1790)年、奥医師・法眼に進んだ。翌年、躋寿館(せいじゅかん)が幕府直轄の医学館となるにともない、助教として幕府医官の子弟を教育。同11年には御匙(おさじ)(将軍侍医)となったが、享和元年寄合医師におとされ、文化7(1810)年奥医師に復したが、この年没した(『日本漢方典籍辞典』)。 ○顓:「専」に通ず。 ○素問識:『素問』の注釈書。全8巻。文化3(1806)年自序。没後の天保8(1837)年刊。『素問』の考証学研究のスタンダード。『聿修堂医学叢書(いっしゅうどういがくそうしょ)』(1884)や『皇漢医学叢書』に収められ、早くに中国でも知られた。廖平『六訳館(りくやくかん)叢書』にも少なからぬ影響を与えている。かつて影印本(績文堂、1981)がある。別に元簡の口述を筆記した『素問記聞(そもんきぶん)』(写本)という書もある(『日本漢方典籍辞典』)。 ○劉茝庭先生有紹識之作:『素問紹識』。多紀元堅(たきもとかた)(1795~1857)の著になる『素問』の注釈書。全4巻。弘化3(1846)年自序。「紹識」とは父多紀元簡(もとやす)の『素問識(そもんし)』を紹す(継ぐ・承ける)の意で、『素問識』の時点では未発見であった仁和寺本『太素』をはじめとする資料を用い、『素問識』を補翼する目的で執筆されたものである。未刊で写本として伝えられたが、その1写本が中国に渡って『皇漢医学叢書』に活字収録された。石原明(いしはらあきら)旧蔵本(小島宝素[こじまほうそ]手沢本)が『黄帝内経古注選集』に影印収録され、さらに自筆稿の最善本(大阪大学懐徳堂文庫本)の影印本(北里東医研医史研、1996)、またそれによる活字校訂本(日本内経学会、1996)が出版されている。なお、本書の前段階となった元堅の著書に『素問参楊(そもんさんよう)』(新発現の楊上善注を参ずるという意)なる書もある(『日本漢方典籍辞典』)。 ○此經:『素問』。 ○一:もっぱら。終始。 ○奉:尊重する。 ○素問二識:『素問識』と『素問紹識』。 ○圭臬:日時計。引伸して信奉して依拠する基準とするもの。 ○愚管:浅はかな見解。おろかな管見。謙遜語。 ○得失互存:得失(適当と不適当)相半ばする。 ○講誦:講授し読誦する。 ○條析:緻密に分析する。 ○竊:自己の見解が不確定であることを指して用いる謙遜語。 ○俲:まねる。 ○經解:経義を解釈する書。儒教の経典を解釈する著作。『皇清經解』『通志堂經解』などあり。 ○捃拾:収集する。 ○汰:無用のものを洗いのぞく。淘汰する。 ○瑕:あやまち、欠点。 ○擷:摘み取る。 ○瑜:美い玉。美徳。「瑕」と対をなして「すぐれた点」。 ○若夫:~に関しては。 ○馬張:馬玄台『素問註証発微』。張介賓『類経』。
二オモテ
○窠臼:一度出来あがって変わらない規格。決まりきったやり方。 ○前哲:前代の聡明で智慧あるひと。 ○刪述:著述する。孔子は『書』を序し『詩』を刪したと伝えられる。また『論語』では「述べて作らず」という。これより、著述することを「刪述」という。劉勰『文心雕龍』宗經:「自夫子刪述,而大寶咸耀」。 ○韓愈:中国、唐代中期の文学者、思想家、政治家。字は退之。郡望によって韓昌黎というが、実は河内南陽(河南省修武県)の人。最終官によって韓吏部といい、諡(おくりな)によって韓文公と呼ぶ。貞元8年(792)の進士。監察御史のとき、京兆尹李実を弾劾し、かえって連州陽山県(広東省)令に左遷、のち、中央に復帰し、中書舎人などを経て、817年(元和12)、地方軍閥呉元済討伐の行軍司馬となり、その功によって刑部侍郎となったが、憲宗が仏舎利を宮中に迎えたのに反対したため、再び潮州(広東省)刺史に左遷された(『世界大百科事典』第2版)。 ○不自量:韓愈『調張籍』:「蚍蜉撼大樹、可笑不自量」。 ○濟世:世の人をたすける。 ○愍:うれう。 ○正大光明:光明正大。公正無私。 ○炳如觀火:明若觀火。非常にはっきりしている。 ○隱:かくれてあらわれない。隱蔽。隱密。隱慝。 ○澁:文が難解。晦渋。 ○艱:困難。けわしい。艱澀(理解しがたいことばの形容)。 ○蹇:艱難。すらすら進まない。 ○鑽研:澈底的に深く研究する。 ○日久:時間が長い。 ○聖經:『黄帝内経』(素問)。 ○布帛菽粟:「布帛」は、衣服のための材料の総称。「菽粟」は、豆や穀物などの日常の食物。平常のものではあるが、一日として欠くべからざるもの。 ○繞繳:繳繞。かかわりまつわる。 ○綜核:まとめあつめて考える。総合的に考察する。 ○妙理:精微玄妙なる道理。 ○剖析:分析する。理解する。 ○義蘊:含意。意味の奥深いところ。 ○從來:以前から今まで。 ○箋解:箋注。古書の注解。 ○庶幾:期待する。 ○切:切実。密接。 ○日用:日常生活にもとめられる。日常的につかう。 ○講肆:講肄。講義学習。 ○然而:逆接の接続詞。 ○經義:経書の意味。 ○鴻:広大。 ○淵:深い。 ○區區:微小な。ちいさい。言うに足りない。 ○管窺蠡測:管を用いて天を窺い、蠡(ひさご)で海を測る。見識の浅薄なたとえ。 ○一家私言:個人的な見解。 ○問世:著作物を出版する。 ○云爾:語末の助詞。かくのごときのみ。
二ウラ
○嘉永七年甲寅:1854年。 ○春王:正月。『春秋左氏傳』隱公元年:「元年春 王正月」。 ○人日:正月七日。 ○侍醫:幕府医官。 ○法眼:法印につぐ地位。 ○醫學教諭:医学館の重立(おもだつ)世話役。 ○喜多邨直寛士栗:きたむらただひろ(1804~76)。直寛は幕府医官喜多村槐園(かいえん)の長子で江戸生まれ。字は士栗(しりつ)、通称安斎(あんさい)のち安正(あんせい)、号は栲窓(ごうそう)のち香城(こうじょう)。儒を安積艮斎(あさかごんさい)に学び、江戸医学館の重職に就き、法眼(ほうげん)の位に進んだが、安政4(1857)年故あって辞し、以後、古医籍を研究し、数々の校訂出版と著述活動を行った。明治時代に活躍した栗本鋤雲(くりもとじょうん)はその実弟。/『黄帝内経素問講義』:『素問』の注解書。全12巻。嘉永7年(1854)年成。同著者の『素問剳記(そもんとうき)』の成果を拡張し、その3年後、直寛51歳時に脱稿したもの。『太素』をはじめとする諸資料を用い、先人の業績を顕彰しつつ継承。考証学的『黄帝内経』研究書に属するが、直寛独自の個性も反映されており、多紀(たき)氏に対する気概を感じさせる。2、3の写本が伝えられるが、先年、著者自筆本(東北大狩野本)が影印出版された(オリエント出版社、1987)。『日本漢方典籍辞典』/また詳しくは『近世漢方医学書集成』88の長谷川弥人先生、および『東洋医学古典注釈選集』4の石田秀実先生の解説を参照。 ○學訓堂:直寛の書堂。
(跋)
本邦天明寛政間講素問者稱芳邨恂益慄稻
葉良仙通達驪恕公忠劉廉夫元簡而恂益有
綱紀予未見良仙有素問研恕公別無成書然
一醫官家弆其手澤訂本標記于次註上下行
欄之際朱墨爛然予嘗貸覽之後讀劉廉夫素問
識援据浩博極爲精覈而迨究其書則知原于恕
公者十之七出於良仙者十之二其間亦必有
採于恂益者是予所不知也而廉夫書中不一
語及此豈魏文所謂自古文人相忌憚者歟而
恐前哲之苦心或泯没不傳是可惋惜而已甲
寅秋仲予草素問講義而成因誌斯語於筴尾
後之讀者亦或有所稽攷乎
嘉永七年八月十九日三街拙者直寛
【訓讀】
本邦、天明·寛政の間、素問を講ずる者、芳邨恂益慄、稻
葉良仙通達、驪恕公忠、劉廉夫元簡と稱す。而して恂益に
綱紀有れども、予未だ見ず。良仙に素問研有り。恕公別に成書無し。然れども
一醫官の家、其の手澤の訂本を弆し、次註を上下の行
欄の際に標記し、朱墨爛然たり。予嘗て之を貸覽す。後に劉廉夫の素問
識を讀むに、援据浩博、極めて精覈を爲す。而れども其の書を究むるに迨(およ)んで、則ち知る、恕
公に原(もと)づく者は十に七、良仙に出づる者は十に二なるを。其の間にも亦た必ず
恂益に採る者有らん。是れ予の知らざる所なり。而るに廉夫、書中に一
語も此れに及ばざるは、豈に魏文謂う所の古(いにしえ)自り文人の相い忌憚する者ならんや。而して
恐らくは前哲の苦心、或いは泯没して傳わらず。是れ惋惜す可きのみ。甲
寅秋仲、予、素問講義を草して成る。因って斯の語を筴尾に誌(しる)す。
後の讀者も亦た或いは稽攷する所有らんか。
嘉永七年八月十九日、三街拙者直寛
【注釋】
○本邦:我が国。 ○天明:1781年~1789年。 ○寛政:1789年~1801年。 ○綱紀:『内経綱紀』。 ○素問研:オリエント出版社『黄帝内経研究叢書』所収。 ○成書:書物として成っているもの。書物。 ○弆:収蔵する。 ○手澤:先人の手垢のついたもの。先人がじかに書き加えたもの。 ○次註:王冰注。 ○朱墨爛然:朱筆と墨筆で評点をつけているのが鮮明である。熱心に読書にはげんださまを形容するのに用いる表現。 ○貸覽:借りて読む。 ○劉廉夫:多紀元簡。 ○援据:援據。援引依據。援用し拠り所とするもの。引証。 ○浩博:範囲が広く数が多い。 ○精覈:くわしく究明し、たしかである。 ○究:研究する。調査する。 ○十之七:十分の七。 ○魏文所謂自古文人相忌憚者歟:『梁書』列傳第四十四/文學下/顏協:「陳吏部尚書姚察曰、魏文帝稱古之文人、鮮能以名節自全(陳吏部尚書姚察曰く、魏の文帝、古の文人、能く名節〔名誉と節操〕を以て自ら全うすること鮮しと稱す、と)」。このことをいうか。/なお、喜多村直寛は、『素問箚記』の序において、銭大昕『廿二史考異』の序のことばをもちいて、剽窃の問題に言及している。 ○前哲:前代の賢者。 ○泯没:消失する。消滅する。 ○惋惜:嘆き惜しむ。かなしい。 ○甲寅:嘉永七年。1854年。 ○秋仲:陰暦八月。 ○草:起稿する。草稿をつくる。 ○筴尾:書冊の末。「筴」は「策(冊)」に同じ。 ○稽攷:考える。考証する。「攷」は「考」の異体。 ○三街:直寛は市ヶ谷御門内でうまれた。現在の市ヶ谷駅から田安門へ向かう靖国通りを三番町通りといったという。「三番町」を唐風に「三街」と表記したのであろう。
2013年12月31日火曜日
素問箚記序
素問箚記序
注素問之家梁有全元起訓解唐有楊上善太素而
迨宋嘉祐閣臣校正此書則顓以王注為定本全楊
二家(書)遂廢是以金元而還諸家惟得見王本故注此
經者皆據王氏若甲乙脈經等文字間有同異然此
亦經宋人校訂者未可據以為引徵△
・欄上追加文:
「吾邦和氣氏奕世所傳真本千金方僅存序例一卷
未經宋人校訂者而其文與今本大異是以知甲乙脈
經已非二(皇)王之舊而元明人所刻則又非宋校之舊矣」
△葢王氏於素問
究畢世之力故其訓義精暢該備殆非全楊二家可
及此乃宋臣之所以表章而傳于世歟近時我
國得仁和寺所藏古本楊氏太素三十卷其間雖有
ウラ
遺缺(軼)而冠冕巋然(尚存十之七八)不如宋校正之僅可闖一斑也況其
書實係鈔李唐之舊帙者未經宋人校訂則王氏朱
墨亦或粲然足以識舊經面目矣寛嘗攻此經一以
王氏為本旁較楊註且就諸書毎有所攷記之餘紙
積久頗多釐為一書題曰素問剳記曩歳劉桂山先
生著素問識茝庭先生繼有紹識之作於元明諸家
及楊註并清人訓詁諸説輯羅宏富採掇菁英無復
餘蘊故愚此編二書所已載亦削藳(不録)或得同人啓示
必舉其姓氏葢郭象何法盛之事深愧之也嗚虖直
2オモテ
寛管窺蠡測何曾有闡發唯一得之愚姑記所見以
就正有道若天幸假年白首講經亦將有潤削矣
嘉永四年辛亥孟春人日喜多村直寛士栗篹
【訓讀】
素問箚記序
素問に注するの家、梁に全元起訓解有り、唐に楊上善太素有り。而して
宋の嘉祐に迨(およ)んで閣臣、此の書を校正するに、則ち顓(もつぱ)ら王注を以て定本と為し、全·楊
の二書、遂に廢す。是(ここ)を以て金元而還の諸家、惟だ王本を見るを得るのみ。故に此の
經に注する者は、皆な王氏に據る。甲乙·脈經等の若きは、文字間ま同異有り。然れども此れも
亦た宋人の校訂を經る者にして、未だ據りて以て引徵を為す可からず。△
・欄上追加文:
「吾が邦の和氣氏奕世傳うる所の真本千金方、僅かに序例一卷を存するのみなれども、
未だ宋人の校訂を經ざる者にして、而して其の文、今本と大いに異なる。是(ここ)を以て知る、甲乙·
脈經、已に皇·王の舊に非ざるを。而して元·明人の刻する所は、則ち又た宋校の舊に非ず。」
△蓋し王氏、素問に於いて
畢世の力を究む。故に其の訓義、精暢該備して、殆ど全·楊二家の
及ぶ可きに非ず。此れ乃ち宋臣の表章して、而して世に傳うる所以か。近時、我が
國、仁和寺藏する所の古本楊氏太素三十卷を得たり。其の間、
ウラ
遺缺(軼)有ると雖も、而して冠冕巋然たり(尚お十の七八を存す)。宋校正の僅かに一斑を闖す可きに如かざるなり。況んや其の
書、實に李唐の舊帙を鈔する者に係り、未だ宋人の校訂を經ざるをや。則ち王氏が朱
墨も亦た或いは粲然として、以て舊經の面目を識(し)るに足らん。寛、嘗て此の經を攻(おさ)め、一に
王氏を以て本と為し、旁(かたわ)ら楊註と較べ、且つ諸書に就きて、攷うる所有る毎に、之を餘紙に記し、
積久すること頗る多く、釐(おさ)めて一書と為す。題して素問剳記と曰う。曩歳、劉桂山先
生、素問識を著し、茝庭先生繼ぎて紹識の作有り。元·明の諸家
及び楊註、并(なら)びに清人の訓詁の諸説、輯羅すること宏富にして、菁英を採掇するに於いて、復た
餘蘊無し。故に愚が此の編、二書の已に載する所も、亦た削藳し(録せず)、或いは同人の啓示を得れば、
必ず其の姓氏を舉ぐ。蓋し郭象·何法盛の事は、深く之を愧づるなり。嗚虖(ああ)、直
2オモテ
寛、管窺蠡測にして、何ぞ曾ち闡發有らん。唯だ一得の愚、姑く見る所を記し、以て
有道に就正し、若し天幸いにして年を假し、白首にして經を講ずれば、亦た將に潤削有らんとす。
嘉永四年辛亥孟春人日、喜多村直寛士栗篹す
【注釋】
○箚記:「札記」に同じ。読書時に要点などをメモすること。「箚」は「札」に同じ。 ○嘉祐:宋仁宗の年号(1056~1063)。 ○閣臣:大学士の別称。入閣して職務をつかさどるため。嘉祐二年に宋は校正医書局を設立し、林億らが『素問』等の校正にたずさわった。 ○顓:「專」の異体。 ○家(書):「家」字に「書」と傍記す。 ○金:1115~1234。 ○元:1279~1368。 ○而還:以来。 ○引徵:「徵引」に同じ。文献から証拠として引用する。 ○奕世:累代。代代。 ○真本千金方:現在、宮内庁書陵部図書寮文庫所蔵。『経籍訪古志』醫部「千金方第一 一卷 舊鈔本 聿修堂藏/首行題千金方第一并序、下記處士孫思邈撰、序後一卷子目、及本文倶接書、卷末有和氣嗣成奕世以下題/跋/……其體式文字與宋人校本不同、而與醫心方所引合、即古時遣唐之使所齎歸者、恨所存僅一卷……」。「真本千金方」と呼称される。詳しくはオリエント出版社東洋医学善本叢書15「千金方研究資料集」所収の小曽戸洋先生の「『千金方』書誌概説」を参照。 ○二王:「二」字の傍記は判読しがたいが、おそらく「皇」であろう。『鍼灸甲乙経』の撰者である皇甫謐と『脈経』の撰者である王叔和。 ○元明人所刻則又非宋校之舊:特に明人は、程衍道本『外台秘要方』に見られるように、自分の理解できない部分をときに意のままに改めたといわれる。 ○葢:「蓋」の異体。 ○畢世:畢生。終生。一生。 ○訓義:文義(文章の意味)の解釈。 ○精暢:くわしく通りがよい。 ○該備:完備している。 ○表章:「表彰」に同じ。顕揚する。 ○仁和寺:真言宗御室派総本山。京都府京都市右京区御室にある。仁和四年開創。『黄帝内経太素』のほかに、『新修本草』など多くの国宝を所蔵する。
ウラ
○遺缺(軼):「缺」字に○がつき、右傍に「軼」字がある。原書を確認する必要があるが、「缺」字を残したか。「軼」は散失の意。「遺」は亡失の意。 ○冠冕:荘厳なさま。高い位置にあるさま。 ○巋然:高く単独で屹立したさま。/「冠冕巋然」四字の左側にそれぞれ「(」左丸括弧があり、右傍に「尚存十之七八」とある。 ○僅可:只可。只能。 ○闖一斑:宋 史彌寧『維則庵追涼題月湖屏間詩後』:「淋淳醉墨灑屏間、逃暑祇園闖一斑。小阮詩懷飽丘壑、可無只句餉江山」。/闖:出す。 ○鈔:書写する。「抄」に同じ。 ○李唐:唐代の皇室の姓が李であるため、唐朝を「李唐」という。 ○帙:書画がいたまないように保護するもの。引伸して書籍。 ○王氏朱墨:『素問』王冰序:「凡所加字、皆朱書其文、使今古必分、字不雜糅」。 ○面目:容貌。 ○寛:喜多村直寛。 ○攻:研鑽する。研究する。 ○一:もっぱら。 ○旁:「傍」に通ず。 ○攷:「考」の異体。 ○積久:長く積み重なる。長い時間の累積。趙翼『廿二史劄記』小引:「有所得、輒劄記別紙、積久遂多」。 ○釐:整理する。 ○曩歳:旧年。過去の年。 ○劉桂山先生:多紀元簡。 ○素問識:文化三(1806)年自序。没後の天保八(1837)年刊。 ○茝庭先生:多紀元堅。 ○紹識:『素問紹識』。弘化三(1846)年自序。 ○元:1279~1368年。 ○明:1368~1644年。 ○清:1644~1911年。 ○輯羅:蒐集網羅。あつめとらえる。 ○宏富:豊富。ゆたか。 ○採掇:拾い取る。選び取る。捜し集める。 ○菁英:精英。精華。最も傑出した優秀なもの。 ○餘蘊:不足の部分。余すところ。 ○愚:自称。謙遜語。 ○削藳:「削藳」の左側に「(」左丸括弧あり、右側に「不録」とある。/削藳:「削稿」に同じ。草稿を削ってなくす。草稿を廃棄する。 ○同人啓示必舉其姓氏:喜多村直寛は『黄帝黄帝内経素問講義』の跋において、『素問識』が日本人(芳邨恂益、稻葉良仙、目黒道琢)の注をたくさん掲載しながら、まったくそのことについての言及がないことを述べている。 ○葢:「蓋」の異体。 ○郭象何法盛之事深愧之也:錢大昕『廿二史考異』序:「偶有所得,寫於别紙。丁亥歲、乞似假歸里、稍編次之。歲有增益、卷帙滋多。……閒與前人闇合者、削而去之。或得於同學啟示、亦必標其姓名。郭象·何法盛之事、葢㴱(=深)恥之也」。/顧炎武『日知錄集釋』卷十八 竊書:「晉以下人則有以他人之書而竊為己作、郭象莊子注、何法盛晉中興書之類是也。若有明一代之人、其所著書無非竊盜而已」。王應麟『困學紀聞』卷十:「向秀注莊子、而郭象竊之。郗紹作晉中興書、而何法盛竊之。二事相類」。/『世説新語』文學第四:「初、注莊子者數十家、莫能究其旨要。向秀於舊注外為解義、妙析奇致、大暢玄風。唯秋水、至樂二篇未竟而秀卒。秀子幼、義遂零落、然猶有別本。郭象者、為人薄行、有儁才。見秀義不傳於世、遂竊以為己注。乃自注秋水、至樂二篇、又易馬蹄一篇、其餘眾篇、或定點文句而已。後秀義別本出、故今有向、郭二莊、其義一也(初め、『莊子』に注する者數十家あるも、能く其の旨要を究むるもの莫し。向秀、舊注の外に解義を為し、奇致を妙析して、大いに玄風を暢ぶ。唯だ秋水·至樂の二篇のみ未だ竟(お)えずして、而して秀卒す。秀の子幼くして、義、遂に零落す。然れども猶お別本有り。郭象なる者、為人(ひととなり)薄行なるも、儁才有り。秀の義、世に傳わざらるを見て、遂に竊かに以て己の注と為す。乃ち自ら秋水·至樂の二篇に注し、又た馬蹄一篇を易え、其の餘の眾篇、或いは文句を定點するのみ。後に秀の義の別本出づ。故に今に向と郭の二『莊』有るも、其の義一なり)。」/『南史』卷三十三 列傳第二十三/郗紹:「時有高平郗紹亦作晉中興書、數以示何法盛。法盛有意圖之、謂紹曰:「卿名位貴達、不復俟此延譽。我寒士、無聞於時、如袁宏、干寶之徒、賴有著述、流聲於後。宜以為惠。」紹不與。至書成、在齋內厨中、法盛詣紹、紹不在、直入竊書。紹還失之、無復兼本、於是遂行何書」。/山田業広『九折堂読書記』の中の『千金方札記(読書記)』についての喜多村直寛 明治六年序:「〔山田〕子勤嘗學於伊澤蘭軒先生、葢傚清人攷證之學、以移為醫家讀書之法者、自謂郭象·何法盛之事深耻之」。 ○嗚虖:「嗚呼」に同じ。
2オモテ
○管窺蠡測:管を用いて天を窺い、蠡(ひさご)を以て海を測る。見る範囲の狭いこと、見識のあさいことの比喩。 ○何曾:反語。どうして。 ○闡發:あきらかにすること。闡明し発揮する。 ○一得之愚:愚者一得。愚か者でも、たまに名案を出すことがある。自己の見解をのべる際の謙遜のことば。 ○就正有道:『論語』學而:「就有道而正焉、可謂好學也已(有道に就きて正す、學を好むと謂う可きなり)」。人に教えを請い、正すことを求む。「有道」は、高い学問道徳を身につけたひと。 ○假年:寿命をのばす。年を貸し与える。 ○白首:頭髪が白くなる。老年になる。 ○潤削:文章を潤色したり、削除したりする。 ○嘉永四年辛亥:1851年。 ○孟春:陰暦の一月。 ○人日:正月初七日。 ○喜多村直寛士栗:『黄帝内経素問講義』序の注を参照。 ○篹:「撰」と同じ。著述。
【識語】
此三笧栲囱先生之所自書草稿
原本也不可不最珎藏矣先生一旦廢
毉事而隱于俳家當是時雖箚
記抄録一小冊子悉皆沽却其為人
卓然清越不蒙世塵所汙可知耳
此際先生手澤書入我架中者亦
爲不尠皆是先生之心血膽汁也子
孫勿忽〃看過去云 枳園森立之
【訓讀】
此の三册、栲窗先生の自ら書する所の草稿
原本なり。最も珍藏せざる可からず。先生、一旦
毉事を廢して俳家に隱る。是の時に當って、箚
記抄録の一小冊子と雖も、悉く皆な沽却す。其の為人(ひととなり)
卓然として清越し、世塵の汙(けが)す所を蒙らざること、知る可きのみ。
此の際、先生手澤の書、我が架中に入る者も亦た
尠からずと為す(/為に尠からず)。皆な是れ先生の心血膽汁なり。子
孫、忽忽として看過ごし去ること勿れと云う。 枳園森立之
【注釋】
○此三笧:『素問箚記』、三巻、三冊。「笧」は「册」の異体。 ○栲囱先生:喜多村直寛。号は「栲窓」。「囱」は、「囪」の異体で、「窗」に同じ。「窗」は「窓」の異体。 ○珎:「珍」の異体。 ○毉:「醫」の異体。 ○俳家:墓碑銘に「同僚と協わざる有り、遂に退職し、城西大塚荘に老ゆ。……先生……西のかた京洛に遊び、東のかた筑波に登り、恒に俳人·歌人と風月を弄し、桑門緇流と心性を談論し、怡然として自ら楽しむ」(『近世漢方医学書集成88』長谷川弥人先生解説による。一部改変)とある。 ○沽却:売り払う。 ○為人:人間としての態度。身の処し方。 ○卓然:卓越したさま。高く抜きんでるさま。 ○清越:清らかに俗を超越している。 ○世塵:世俗。 ○汙:「汗(あせ)」字ではなく、「汚」の異体である「汙」字であろう。世俗の塵に汚されない。 ○手澤書:手垢の付いた書。先人の遺愛の品。ここでは自筆本。 ○架中:書架の中。 ○心血:心臓の血液。心血を注いだもの。精神気力を尽くしたもの。 ○膽汁:からだの一部、分身であることをあらわす比喩なのであろう。 ○忽忽:軽率なさま。 ○枳園森立之:1807~85。立之(たつゆき)は江戸の人で、字は立夫(りつぷ)、号は枳園(きえん)ほか別号多数。狩谷棭斎(かりやえきさい)・伊沢蘭軒(いざわらんけん)・小島宝素(こじまほうそ)などに学び、一時浪人生活を送ったが、弘化5(1848)年福山藩医に復し、江戸医学館の講師となり、幕末・明治初には先輩・同僚の業績を引き継いで考証学の第一人者となった。書誌学者としても知られる(『日本漢方典籍辞典』)。
注素問之家梁有全元起訓解唐有楊上善太素而
迨宋嘉祐閣臣校正此書則顓以王注為定本全楊
二家(書)遂廢是以金元而還諸家惟得見王本故注此
經者皆據王氏若甲乙脈經等文字間有同異然此
亦經宋人校訂者未可據以為引徵△
・欄上追加文:
「吾邦和氣氏奕世所傳真本千金方僅存序例一卷
未經宋人校訂者而其文與今本大異是以知甲乙脈
經已非二(皇)王之舊而元明人所刻則又非宋校之舊矣」
△葢王氏於素問
究畢世之力故其訓義精暢該備殆非全楊二家可
及此乃宋臣之所以表章而傳于世歟近時我
國得仁和寺所藏古本楊氏太素三十卷其間雖有
ウラ
遺缺(軼)而冠冕巋然(尚存十之七八)不如宋校正之僅可闖一斑也況其
書實係鈔李唐之舊帙者未經宋人校訂則王氏朱
墨亦或粲然足以識舊經面目矣寛嘗攻此經一以
王氏為本旁較楊註且就諸書毎有所攷記之餘紙
積久頗多釐為一書題曰素問剳記曩歳劉桂山先
生著素問識茝庭先生繼有紹識之作於元明諸家
及楊註并清人訓詁諸説輯羅宏富採掇菁英無復
餘蘊故愚此編二書所已載亦削藳(不録)或得同人啓示
必舉其姓氏葢郭象何法盛之事深愧之也嗚虖直
2オモテ
寛管窺蠡測何曾有闡發唯一得之愚姑記所見以
就正有道若天幸假年白首講經亦將有潤削矣
嘉永四年辛亥孟春人日喜多村直寛士栗篹
【訓讀】
素問箚記序
素問に注するの家、梁に全元起訓解有り、唐に楊上善太素有り。而して
宋の嘉祐に迨(およ)んで閣臣、此の書を校正するに、則ち顓(もつぱ)ら王注を以て定本と為し、全·楊
の二書、遂に廢す。是(ここ)を以て金元而還の諸家、惟だ王本を見るを得るのみ。故に此の
經に注する者は、皆な王氏に據る。甲乙·脈經等の若きは、文字間ま同異有り。然れども此れも
亦た宋人の校訂を經る者にして、未だ據りて以て引徵を為す可からず。△
・欄上追加文:
「吾が邦の和氣氏奕世傳うる所の真本千金方、僅かに序例一卷を存するのみなれども、
未だ宋人の校訂を經ざる者にして、而して其の文、今本と大いに異なる。是(ここ)を以て知る、甲乙·
脈經、已に皇·王の舊に非ざるを。而して元·明人の刻する所は、則ち又た宋校の舊に非ず。」
△蓋し王氏、素問に於いて
畢世の力を究む。故に其の訓義、精暢該備して、殆ど全·楊二家の
及ぶ可きに非ず。此れ乃ち宋臣の表章して、而して世に傳うる所以か。近時、我が
國、仁和寺藏する所の古本楊氏太素三十卷を得たり。其の間、
ウラ
遺缺(軼)有ると雖も、而して冠冕巋然たり(尚お十の七八を存す)。宋校正の僅かに一斑を闖す可きに如かざるなり。況んや其の
書、實に李唐の舊帙を鈔する者に係り、未だ宋人の校訂を經ざるをや。則ち王氏が朱
墨も亦た或いは粲然として、以て舊經の面目を識(し)るに足らん。寛、嘗て此の經を攻(おさ)め、一に
王氏を以て本と為し、旁(かたわ)ら楊註と較べ、且つ諸書に就きて、攷うる所有る毎に、之を餘紙に記し、
積久すること頗る多く、釐(おさ)めて一書と為す。題して素問剳記と曰う。曩歳、劉桂山先
生、素問識を著し、茝庭先生繼ぎて紹識の作有り。元·明の諸家
及び楊註、并(なら)びに清人の訓詁の諸説、輯羅すること宏富にして、菁英を採掇するに於いて、復た
餘蘊無し。故に愚が此の編、二書の已に載する所も、亦た削藳し(録せず)、或いは同人の啓示を得れば、
必ず其の姓氏を舉ぐ。蓋し郭象·何法盛の事は、深く之を愧づるなり。嗚虖(ああ)、直
2オモテ
寛、管窺蠡測にして、何ぞ曾ち闡發有らん。唯だ一得の愚、姑く見る所を記し、以て
有道に就正し、若し天幸いにして年を假し、白首にして經を講ずれば、亦た將に潤削有らんとす。
嘉永四年辛亥孟春人日、喜多村直寛士栗篹す
【注釋】
○箚記:「札記」に同じ。読書時に要点などをメモすること。「箚」は「札」に同じ。 ○嘉祐:宋仁宗の年号(1056~1063)。 ○閣臣:大学士の別称。入閣して職務をつかさどるため。嘉祐二年に宋は校正医書局を設立し、林億らが『素問』等の校正にたずさわった。 ○顓:「專」の異体。 ○家(書):「家」字に「書」と傍記す。 ○金:1115~1234。 ○元:1279~1368。 ○而還:以来。 ○引徵:「徵引」に同じ。文献から証拠として引用する。 ○奕世:累代。代代。 ○真本千金方:現在、宮内庁書陵部図書寮文庫所蔵。『経籍訪古志』醫部「千金方第一 一卷 舊鈔本 聿修堂藏/首行題千金方第一并序、下記處士孫思邈撰、序後一卷子目、及本文倶接書、卷末有和氣嗣成奕世以下題/跋/……其體式文字與宋人校本不同、而與醫心方所引合、即古時遣唐之使所齎歸者、恨所存僅一卷……」。「真本千金方」と呼称される。詳しくはオリエント出版社東洋医学善本叢書15「千金方研究資料集」所収の小曽戸洋先生の「『千金方』書誌概説」を参照。 ○二王:「二」字の傍記は判読しがたいが、おそらく「皇」であろう。『鍼灸甲乙経』の撰者である皇甫謐と『脈経』の撰者である王叔和。 ○元明人所刻則又非宋校之舊:特に明人は、程衍道本『外台秘要方』に見られるように、自分の理解できない部分をときに意のままに改めたといわれる。 ○葢:「蓋」の異体。 ○畢世:畢生。終生。一生。 ○訓義:文義(文章の意味)の解釈。 ○精暢:くわしく通りがよい。 ○該備:完備している。 ○表章:「表彰」に同じ。顕揚する。 ○仁和寺:真言宗御室派総本山。京都府京都市右京区御室にある。仁和四年開創。『黄帝内経太素』のほかに、『新修本草』など多くの国宝を所蔵する。
ウラ
○遺缺(軼):「缺」字に○がつき、右傍に「軼」字がある。原書を確認する必要があるが、「缺」字を残したか。「軼」は散失の意。「遺」は亡失の意。 ○冠冕:荘厳なさま。高い位置にあるさま。 ○巋然:高く単独で屹立したさま。/「冠冕巋然」四字の左側にそれぞれ「(」左丸括弧があり、右傍に「尚存十之七八」とある。 ○僅可:只可。只能。 ○闖一斑:宋 史彌寧『維則庵追涼題月湖屏間詩後』:「淋淳醉墨灑屏間、逃暑祇園闖一斑。小阮詩懷飽丘壑、可無只句餉江山」。/闖:出す。 ○鈔:書写する。「抄」に同じ。 ○李唐:唐代の皇室の姓が李であるため、唐朝を「李唐」という。 ○帙:書画がいたまないように保護するもの。引伸して書籍。 ○王氏朱墨:『素問』王冰序:「凡所加字、皆朱書其文、使今古必分、字不雜糅」。 ○面目:容貌。 ○寛:喜多村直寛。 ○攻:研鑽する。研究する。 ○一:もっぱら。 ○旁:「傍」に通ず。 ○攷:「考」の異体。 ○積久:長く積み重なる。長い時間の累積。趙翼『廿二史劄記』小引:「有所得、輒劄記別紙、積久遂多」。 ○釐:整理する。 ○曩歳:旧年。過去の年。 ○劉桂山先生:多紀元簡。 ○素問識:文化三(1806)年自序。没後の天保八(1837)年刊。 ○茝庭先生:多紀元堅。 ○紹識:『素問紹識』。弘化三(1846)年自序。 ○元:1279~1368年。 ○明:1368~1644年。 ○清:1644~1911年。 ○輯羅:蒐集網羅。あつめとらえる。 ○宏富:豊富。ゆたか。 ○採掇:拾い取る。選び取る。捜し集める。 ○菁英:精英。精華。最も傑出した優秀なもの。 ○餘蘊:不足の部分。余すところ。 ○愚:自称。謙遜語。 ○削藳:「削藳」の左側に「(」左丸括弧あり、右側に「不録」とある。/削藳:「削稿」に同じ。草稿を削ってなくす。草稿を廃棄する。 ○同人啓示必舉其姓氏:喜多村直寛は『黄帝黄帝内経素問講義』の跋において、『素問識』が日本人(芳邨恂益、稻葉良仙、目黒道琢)の注をたくさん掲載しながら、まったくそのことについての言及がないことを述べている。 ○葢:「蓋」の異体。 ○郭象何法盛之事深愧之也:錢大昕『廿二史考異』序:「偶有所得,寫於别紙。丁亥歲、乞似假歸里、稍編次之。歲有增益、卷帙滋多。……閒與前人闇合者、削而去之。或得於同學啟示、亦必標其姓名。郭象·何法盛之事、葢㴱(=深)恥之也」。/顧炎武『日知錄集釋』卷十八 竊書:「晉以下人則有以他人之書而竊為己作、郭象莊子注、何法盛晉中興書之類是也。若有明一代之人、其所著書無非竊盜而已」。王應麟『困學紀聞』卷十:「向秀注莊子、而郭象竊之。郗紹作晉中興書、而何法盛竊之。二事相類」。/『世説新語』文學第四:「初、注莊子者數十家、莫能究其旨要。向秀於舊注外為解義、妙析奇致、大暢玄風。唯秋水、至樂二篇未竟而秀卒。秀子幼、義遂零落、然猶有別本。郭象者、為人薄行、有儁才。見秀義不傳於世、遂竊以為己注。乃自注秋水、至樂二篇、又易馬蹄一篇、其餘眾篇、或定點文句而已。後秀義別本出、故今有向、郭二莊、其義一也(初め、『莊子』に注する者數十家あるも、能く其の旨要を究むるもの莫し。向秀、舊注の外に解義を為し、奇致を妙析して、大いに玄風を暢ぶ。唯だ秋水·至樂の二篇のみ未だ竟(お)えずして、而して秀卒す。秀の子幼くして、義、遂に零落す。然れども猶お別本有り。郭象なる者、為人(ひととなり)薄行なるも、儁才有り。秀の義、世に傳わざらるを見て、遂に竊かに以て己の注と為す。乃ち自ら秋水·至樂の二篇に注し、又た馬蹄一篇を易え、其の餘の眾篇、或いは文句を定點するのみ。後に秀の義の別本出づ。故に今に向と郭の二『莊』有るも、其の義一なり)。」/『南史』卷三十三 列傳第二十三/郗紹:「時有高平郗紹亦作晉中興書、數以示何法盛。法盛有意圖之、謂紹曰:「卿名位貴達、不復俟此延譽。我寒士、無聞於時、如袁宏、干寶之徒、賴有著述、流聲於後。宜以為惠。」紹不與。至書成、在齋內厨中、法盛詣紹、紹不在、直入竊書。紹還失之、無復兼本、於是遂行何書」。/山田業広『九折堂読書記』の中の『千金方札記(読書記)』についての喜多村直寛 明治六年序:「〔山田〕子勤嘗學於伊澤蘭軒先生、葢傚清人攷證之學、以移為醫家讀書之法者、自謂郭象·何法盛之事深耻之」。 ○嗚虖:「嗚呼」に同じ。
2オモテ
○管窺蠡測:管を用いて天を窺い、蠡(ひさご)を以て海を測る。見る範囲の狭いこと、見識のあさいことの比喩。 ○何曾:反語。どうして。 ○闡發:あきらかにすること。闡明し発揮する。 ○一得之愚:愚者一得。愚か者でも、たまに名案を出すことがある。自己の見解をのべる際の謙遜のことば。 ○就正有道:『論語』學而:「就有道而正焉、可謂好學也已(有道に就きて正す、學を好むと謂う可きなり)」。人に教えを請い、正すことを求む。「有道」は、高い学問道徳を身につけたひと。 ○假年:寿命をのばす。年を貸し与える。 ○白首:頭髪が白くなる。老年になる。 ○潤削:文章を潤色したり、削除したりする。 ○嘉永四年辛亥:1851年。 ○孟春:陰暦の一月。 ○人日:正月初七日。 ○喜多村直寛士栗:『黄帝内経素問講義』序の注を参照。 ○篹:「撰」と同じ。著述。
【識語】
此三笧栲囱先生之所自書草稿
原本也不可不最珎藏矣先生一旦廢
毉事而隱于俳家當是時雖箚
記抄録一小冊子悉皆沽却其為人
卓然清越不蒙世塵所汙可知耳
此際先生手澤書入我架中者亦
爲不尠皆是先生之心血膽汁也子
孫勿忽〃看過去云 枳園森立之
【訓讀】
此の三册、栲窗先生の自ら書する所の草稿
原本なり。最も珍藏せざる可からず。先生、一旦
毉事を廢して俳家に隱る。是の時に當って、箚
記抄録の一小冊子と雖も、悉く皆な沽却す。其の為人(ひととなり)
卓然として清越し、世塵の汙(けが)す所を蒙らざること、知る可きのみ。
此の際、先生手澤の書、我が架中に入る者も亦た
尠からずと為す(/為に尠からず)。皆な是れ先生の心血膽汁なり。子
孫、忽忽として看過ごし去ること勿れと云う。 枳園森立之
【注釋】
○此三笧:『素問箚記』、三巻、三冊。「笧」は「册」の異体。 ○栲囱先生:喜多村直寛。号は「栲窓」。「囱」は、「囪」の異体で、「窗」に同じ。「窗」は「窓」の異体。 ○珎:「珍」の異体。 ○毉:「醫」の異体。 ○俳家:墓碑銘に「同僚と協わざる有り、遂に退職し、城西大塚荘に老ゆ。……先生……西のかた京洛に遊び、東のかた筑波に登り、恒に俳人·歌人と風月を弄し、桑門緇流と心性を談論し、怡然として自ら楽しむ」(『近世漢方医学書集成88』長谷川弥人先生解説による。一部改変)とある。 ○沽却:売り払う。 ○為人:人間としての態度。身の処し方。 ○卓然:卓越したさま。高く抜きんでるさま。 ○清越:清らかに俗を超越している。 ○世塵:世俗。 ○汙:「汗(あせ)」字ではなく、「汚」の異体である「汙」字であろう。世俗の塵に汚されない。 ○手澤書:手垢の付いた書。先人の遺愛の品。ここでは自筆本。 ○架中:書架の中。 ○心血:心臓の血液。心血を注いだもの。精神気力を尽くしたもの。 ○膽汁:からだの一部、分身であることをあらわす比喩なのであろう。 ○忽忽:軽率なさま。 ○枳園森立之:1807~85。立之(たつゆき)は江戸の人で、字は立夫(りつぷ)、号は枳園(きえん)ほか別号多数。狩谷棭斎(かりやえきさい)・伊沢蘭軒(いざわらんけん)・小島宝素(こじまほうそ)などに学び、一時浪人生活を送ったが、弘化5(1848)年福山藩医に復し、江戸医学館の講師となり、幕末・明治初には先輩・同僚の業績を引き継いで考証学の第一人者となった。書誌学者としても知られる(『日本漢方典籍辞典』)。
2013年12月30日月曜日
黃帝内經太素九卷經纂録序
黃帝内經太素九卷經纂録序
漢蓺文志黃帝内經十八卷今所傳素問九卷靈樞九卷即其
書也素問唐寶應中啓玄子王氷為之次注宋儒臣校正以傳
之如靈樞則林億曰其文不全葢五代至宋初失傳而哲宗朝
高麗獻其全帙事見江少虞宋朝類苑故世所傳僅宋人刻本
而已然楊上善太素全收二經則唐代巋然存于世者可知也
我邦昔時嘗傳上善太素其後久屬絶響而近復顯于世雖有
遺佚卷帙頗存劉茝庭先生嘗就其書校鈔素問且嘱針科侍
醫山崎次圭琦令謄録靈樞次圭書將全藁而乍罹于火遂歸
ウラ
烏有次圭更欲纘其緒而未果也頃先生令寛為紹續寛惟素
問既有王注靈樞乃唐代至宋除上善未有注本囙録太素原
文校諸今本為舉同異併上善注別為一書仍附目録以存其
舊矣攷靈樞名葢出于道家者流楊氏注中稱九卷又稱九卷
經今囙題曰黃帝内經太素九卷經纂録當與素問王注并傳
而可也嗚呼世之以馬張諸家為兎圍(まま)冊子者視之庶幾可以
少省而已若夫上善宋臣稱隋人而其實為唐初人先生既有
詳考茲不復衍焉
嘉永戊戌中秋後二日喜多村直寛士栗誌于學訓堂中
【訓讀】
黃帝内經太素九卷經纂録序
漢の蓺文志に、黃帝内經十八卷と。今、傳うる所の素問九卷、靈樞九卷、即ち其の
書なり。素問は、唐の寶應中、啓玄子王氷、之が次注を為し、宋の儒臣、校正して以て
之を傳う。靈樞の如きは、則ち林億曰く、其の文全からず、と。蓋し五代より宋初に至って失傳せん。而して哲宗の朝、
高麗、其の全帙を獻(たてまつ)る。事、江少虞の宋朝類苑に見ゆ。故に世に傳うる所、僅かに宋人の刻本
のみ。然して楊上善の太素、全く二經を收むれば、則ち唐代に巋然として世に存せし者(こと)、知る可きなり。
我が邦、昔時嘗て上善の太素を傳う。其の後久しく絶響に屬す。而して近ごろ復た世に顯わる。
遺佚有りと雖も、卷帙頗る存す。劉茝庭先生嘗て其に書に就きて、校して素問を鈔す。且つ針科侍
醫山崎次圭琦に嘱して、靈樞を謄録せしむ。次圭の書、將に藁を全うせんとして、而して乍ち火に罹り、遂に
ウラ
烏有に歸す。次圭、更に其の緒を纘(つ)がんと欲すれども、而して未だ果せざるなり。頃(このご)ろ先生、寛をして紹續を為さしむ。寛惟(おもんみ)るに、素
問に既に王注有り、靈樞は乃ち唐代より宋に至るまで、上善を除きて、未だ注本有らず、と。因りて太素の原
文を録し、諸(これ)を今本と校し、同異を舉ぐるを為し、上善の注と併せて、別に一書と為す。仍りて目録を附して、以て其の
舊を存す。靈樞の名を攷うれば、蓋し道家者の流れに出でん。楊氏に注中に、九卷と稱し、又た九卷
經と稱す。今因りて題して黃帝内經太素九卷經纂録と曰う。當に素問王注と并(あわ)せて傳うべく
して可なり。嗚呼(ああ)、世の馬張の諸家を以て、兎園冊子と為す者は、之を視て、庶幾(こいねが)わくは以て
少しく省る可きのみ。夫(か)の上善の若きは、宋臣、隋人と稱す。而して其の實、唐初の人為(た)り。先生に既に
詳考有れば、茲に復た衍せず。
嘉永戊戌中秋後二日、喜多村直寛士栗、學訓堂中に誌(しる)す。
【注釋】
○漢蓺文志:『漢書』藝文志。「蓺」は「藝」に同じ。「蓺」字は、『甲乙経』序に見える。 ○黃帝内經十八卷:『漢書』藝文志第十/方技略/醫經に「黃帝內經十八卷」とある。 ○今所傳素問九卷靈樞九卷即其書也:『黃帝三部鍼灸甲乙經』序:「按七略·蓺文志、黃帝内經十八卷、今有鍼經九卷、素問九卷、二九十八卷、即内經也」。 ○唐寶應:肅宗の年号。王氷『素問』には宝応元年(762)の序がある。 ○啓玄子王氷:新校正云:「按唐『人物志』、冰仕唐爲太僕令、年八十餘以壽終」。 ○次注:林億等『重廣補注黃帝内經素問』序:「迄唐寳應中、太僕王冰篤好之、得先師所藏之卷、大爲次註」。『重廣補注黃帝内經素問』卷二のはじめには「啓玄子次注」とある。 ○宋儒臣:林億·孫竒·髙保衡ら。 ○其文不全:『素問』調經論 新校正:「按今素問注中引鍼經者多靈樞之文、但以靈樞今不全、故未得盡知也(按ずるに、今『素問』注中に引ける『鍼經』なる者は『靈樞』の文多し。但だ『靈樞』、今ま全からざるを以ての故に未だ盡くは知るを得ざるなり)」。 ○葢:「蓋」の異体。 ○五代:907~960年。唐滅亡後、宋の建国以前。唐·晉·漢·周·梁。 ○哲宗:神宗の子。名は煦。在位1085~1100年。 ○高麗:918~1392年。 ○獻:献上する。 ○全帙:全書。欠けてない書冊。 ○江少虞宋朝類苑:『宋朝事実類苑』七十八巻。もとの名は、『事実類苑』。『皇朝類苑』ともいう。北宋の太祖から神宗までの百二十年あまりの史実を記録する。江少虞、字は、虞仲。常山(いま浙江省)のひと。/『(新雕)皇朝類苑』(武進董康本)卷三十一詞翰書籍・藏書之府・二十「哲宗時、臣寮言、竊見高麗獻到書內、有黃帝鍼經九卷。據素問序、稱漢書藝文志、黃帝內經十八篇、素問與此書各九卷、乃合本數。此書久經兵火、亡失幾盡、偶存於東夷、今此來獻、篇秩具存、不可不宣布海內、使學者誦習、伏望朝廷詳酌、下尚書工部、雕刻印板、送國子監、依例摹印施行。所貴濟衆之功、溥及天下。有旨令祕書省、選奏通曉醫書官三兩員校對、及令本省詳定訖、依所申施行」。 ○楊上善:初唐のひと。官は太子文学にいたる。近年出土した墓誌によれば、名が上、字が善という。詳細は、張固也と張世磊『楊上善生平考据新証』(『中医文献雑誌』2008年5期)を参照。 ○太素:『黄帝内経太素』三十巻。『黄帝内経』の古い伝本のひとつ。 ○二經:『素問』と『霊枢』。 ○巋然:高く独立したさま。そびえたつさま。 ○絶響:失伝した技芸などの比喩。『晉書』卷四十九˙阮籍等傳˙史臣曰:「嵇琴絕響、阮氣徒存」。 ○顯于世:文政三年(1820)、京都の福井氏が家蔵の卷二十七を模刻した。その後、仁和寺本が模写され、ひろまる。 ○雖有遺佚卷帙頗存:二十三巻残存す。 ○劉茝庭先生:多紀元堅(もとかた)。元堅の字は亦柔(えきじゅう)、号は茝庭(さいてい)、三松(さんしょう)。幼名は鋼之進、のち安叔(あんしゅく)。元簡(もとやす)の第5子で、元簡の家督は兄元胤(もとつぐ)が継ぎ、元堅は別に一家を興した。天保7(1836)年奥医師、法眼。同11年法印。弘化2(1845)年将軍家慶(いえよし)の御匙(おさじ)(侍医)。父の考証学の学風を継いで善本(ぜんぽん)医籍の収集、校訂、復刻に務め、渋江抽斎(しぶえちゅうさい)、森立之(もりたつゆき)、小島宝素(こじまほうそ)らの考証医学者を育てた(『日本漢方典籍辞典』)。 ○校:校勘する。 ○鈔:抄写する。 ○針科侍醫山崎次圭琦:山崎菁園の嗣子(生没年未調査)。山崎菁園、五代目次善、諱は元方。多紀元簡の弟(藍溪の第四子)。次圭は、菁園が亡くなったとき(天保十三年/1842)、西の丸の奥医師。法眼。 ○謄録:謄写抄録する。 ○全藁:文書を書き終える。 ○罹于火:火災発生時期、未詳。
ウラ
○烏有:まったく無くなる。 ○纘:継承する。継続する。 ○緒:事業。 ○未果也:理由、未詳。亡くなったか。 ○頃:近頃。 ○寛:本書の撰者、喜多村直寛。 ○紹續:うけつぐ。 ○囙:「因」の異体。 ○今本:いまに伝わる『霊枢』。具体的には、どの版本によるか、未調査。 ○同異:異同。文字の異なるところ。 ○附目録以存其舊矣:『黃帝内經太素九卷經纂録』の目録と『黃帝内經太素』原目あり。現在知られている仁和寺本と比較すると、卷十六の記載なく、卷二十一「缺」。したがって本書は九針十二原を欠く。(卷二十一は、福井家が所蔵していた。) ○道家者流:『漢書』藝文志:「道家者流、蓋出於史官、歷記成敗存亡禍福古今之道、然後知秉要執本、清虛以自守、卑弱以自持、此君人南面之術也」。 ○纂:編輯する。集める。 ○馬:馬蒔『黃帝内經靈樞註證發微』。 ○張:張介賓『類經』。張志聰『靈樞集注』は、「諸家」に含まれるであろう。 ○兎圍册子:「兎」は「兔」の異体。なお最後の画の点は書かれていない。「免」でもなかろう。「圍」字は、おそらく「園」の誤字か記憶違いであろう。「兔園册子」は、もと民間、村の塾ではやっている読本。のちに、平易な、わかりやすい本。『新五代史』卷五十五˙劉岳傳:「兔園冊者、鄉校俚儒教田夫牧子之所誦也」。 ○若夫上善:楊上善については。 ○宋臣稱隋人:重廣補注黃帝内經素問序:「及隋楊上善纂而爲『太素』」。 ○先生既有詳考:先生とは元堅のことであろうが、その詳考に関しては未詳。あるいは、多紀元胤『醫籍考』卷六を指すか。 ○衍:くわしく展開する。おしひろげる。 ○嘉永戊戌:嘉永に「戊戌」なし。「戊申」であれば嘉永元年(1848)、「庚戌」であれば嘉永三年(1850)。十二支の方が間違えにくいと思うので、嘉永三年か。 ○中秋:旧暦八月十五日。 ○喜多村直寛士栗:喜多村直寛(きたむらただひろ)は幕府医官喜多村槐園(かいえん)の長子で江戸生まれ。字は士栗(しりつ)、通称安斎(あんさい)のち安正(あんせい)、号は栲窓(ごうそう)のち香城(こうじょう)。儒を安積艮斎(あさかごんさい)に学び、江戸医学館の重職に就き、法眼(ほうげん)の位に進んだが、安政4(1857)年故あって辞し、以後、古医籍を研究し、数々の校訂出版と著述活動を行った。明治時代に活躍した栗本鋤雲(くりもとじょうん)はその実弟(『日本漢方典籍辞典』)。 ○學訓堂:直寛の堂号。
漢蓺文志黃帝内經十八卷今所傳素問九卷靈樞九卷即其
書也素問唐寶應中啓玄子王氷為之次注宋儒臣校正以傳
之如靈樞則林億曰其文不全葢五代至宋初失傳而哲宗朝
高麗獻其全帙事見江少虞宋朝類苑故世所傳僅宋人刻本
而已然楊上善太素全收二經則唐代巋然存于世者可知也
我邦昔時嘗傳上善太素其後久屬絶響而近復顯于世雖有
遺佚卷帙頗存劉茝庭先生嘗就其書校鈔素問且嘱針科侍
醫山崎次圭琦令謄録靈樞次圭書將全藁而乍罹于火遂歸
ウラ
烏有次圭更欲纘其緒而未果也頃先生令寛為紹續寛惟素
問既有王注靈樞乃唐代至宋除上善未有注本囙録太素原
文校諸今本為舉同異併上善注別為一書仍附目録以存其
舊矣攷靈樞名葢出于道家者流楊氏注中稱九卷又稱九卷
經今囙題曰黃帝内經太素九卷經纂録當與素問王注并傳
而可也嗚呼世之以馬張諸家為兎圍(まま)冊子者視之庶幾可以
少省而已若夫上善宋臣稱隋人而其實為唐初人先生既有
詳考茲不復衍焉
嘉永戊戌中秋後二日喜多村直寛士栗誌于學訓堂中
【訓讀】
黃帝内經太素九卷經纂録序
漢の蓺文志に、黃帝内經十八卷と。今、傳うる所の素問九卷、靈樞九卷、即ち其の
書なり。素問は、唐の寶應中、啓玄子王氷、之が次注を為し、宋の儒臣、校正して以て
之を傳う。靈樞の如きは、則ち林億曰く、其の文全からず、と。蓋し五代より宋初に至って失傳せん。而して哲宗の朝、
高麗、其の全帙を獻(たてまつ)る。事、江少虞の宋朝類苑に見ゆ。故に世に傳うる所、僅かに宋人の刻本
のみ。然して楊上善の太素、全く二經を收むれば、則ち唐代に巋然として世に存せし者(こと)、知る可きなり。
我が邦、昔時嘗て上善の太素を傳う。其の後久しく絶響に屬す。而して近ごろ復た世に顯わる。
遺佚有りと雖も、卷帙頗る存す。劉茝庭先生嘗て其に書に就きて、校して素問を鈔す。且つ針科侍
醫山崎次圭琦に嘱して、靈樞を謄録せしむ。次圭の書、將に藁を全うせんとして、而して乍ち火に罹り、遂に
ウラ
烏有に歸す。次圭、更に其の緒を纘(つ)がんと欲すれども、而して未だ果せざるなり。頃(このご)ろ先生、寛をして紹續を為さしむ。寛惟(おもんみ)るに、素
問に既に王注有り、靈樞は乃ち唐代より宋に至るまで、上善を除きて、未だ注本有らず、と。因りて太素の原
文を録し、諸(これ)を今本と校し、同異を舉ぐるを為し、上善の注と併せて、別に一書と為す。仍りて目録を附して、以て其の
舊を存す。靈樞の名を攷うれば、蓋し道家者の流れに出でん。楊氏に注中に、九卷と稱し、又た九卷
經と稱す。今因りて題して黃帝内經太素九卷經纂録と曰う。當に素問王注と并(あわ)せて傳うべく
して可なり。嗚呼(ああ)、世の馬張の諸家を以て、兎園冊子と為す者は、之を視て、庶幾(こいねが)わくは以て
少しく省る可きのみ。夫(か)の上善の若きは、宋臣、隋人と稱す。而して其の實、唐初の人為(た)り。先生に既に
詳考有れば、茲に復た衍せず。
嘉永戊戌中秋後二日、喜多村直寛士栗、學訓堂中に誌(しる)す。
【注釋】
○漢蓺文志:『漢書』藝文志。「蓺」は「藝」に同じ。「蓺」字は、『甲乙経』序に見える。 ○黃帝内經十八卷:『漢書』藝文志第十/方技略/醫經に「黃帝內經十八卷」とある。 ○今所傳素問九卷靈樞九卷即其書也:『黃帝三部鍼灸甲乙經』序:「按七略·蓺文志、黃帝内經十八卷、今有鍼經九卷、素問九卷、二九十八卷、即内經也」。 ○唐寶應:肅宗の年号。王氷『素問』には宝応元年(762)の序がある。 ○啓玄子王氷:新校正云:「按唐『人物志』、冰仕唐爲太僕令、年八十餘以壽終」。 ○次注:林億等『重廣補注黃帝内經素問』序:「迄唐寳應中、太僕王冰篤好之、得先師所藏之卷、大爲次註」。『重廣補注黃帝内經素問』卷二のはじめには「啓玄子次注」とある。 ○宋儒臣:林億·孫竒·髙保衡ら。 ○其文不全:『素問』調經論 新校正:「按今素問注中引鍼經者多靈樞之文、但以靈樞今不全、故未得盡知也(按ずるに、今『素問』注中に引ける『鍼經』なる者は『靈樞』の文多し。但だ『靈樞』、今ま全からざるを以ての故に未だ盡くは知るを得ざるなり)」。 ○葢:「蓋」の異体。 ○五代:907~960年。唐滅亡後、宋の建国以前。唐·晉·漢·周·梁。 ○哲宗:神宗の子。名は煦。在位1085~1100年。 ○高麗:918~1392年。 ○獻:献上する。 ○全帙:全書。欠けてない書冊。 ○江少虞宋朝類苑:『宋朝事実類苑』七十八巻。もとの名は、『事実類苑』。『皇朝類苑』ともいう。北宋の太祖から神宗までの百二十年あまりの史実を記録する。江少虞、字は、虞仲。常山(いま浙江省)のひと。/『(新雕)皇朝類苑』(武進董康本)卷三十一詞翰書籍・藏書之府・二十「哲宗時、臣寮言、竊見高麗獻到書內、有黃帝鍼經九卷。據素問序、稱漢書藝文志、黃帝內經十八篇、素問與此書各九卷、乃合本數。此書久經兵火、亡失幾盡、偶存於東夷、今此來獻、篇秩具存、不可不宣布海內、使學者誦習、伏望朝廷詳酌、下尚書工部、雕刻印板、送國子監、依例摹印施行。所貴濟衆之功、溥及天下。有旨令祕書省、選奏通曉醫書官三兩員校對、及令本省詳定訖、依所申施行」。 ○楊上善:初唐のひと。官は太子文学にいたる。近年出土した墓誌によれば、名が上、字が善という。詳細は、張固也と張世磊『楊上善生平考据新証』(『中医文献雑誌』2008年5期)を参照。 ○太素:『黄帝内経太素』三十巻。『黄帝内経』の古い伝本のひとつ。 ○二經:『素問』と『霊枢』。 ○巋然:高く独立したさま。そびえたつさま。 ○絶響:失伝した技芸などの比喩。『晉書』卷四十九˙阮籍等傳˙史臣曰:「嵇琴絕響、阮氣徒存」。 ○顯于世:文政三年(1820)、京都の福井氏が家蔵の卷二十七を模刻した。その後、仁和寺本が模写され、ひろまる。 ○雖有遺佚卷帙頗存:二十三巻残存す。 ○劉茝庭先生:多紀元堅(もとかた)。元堅の字は亦柔(えきじゅう)、号は茝庭(さいてい)、三松(さんしょう)。幼名は鋼之進、のち安叔(あんしゅく)。元簡(もとやす)の第5子で、元簡の家督は兄元胤(もとつぐ)が継ぎ、元堅は別に一家を興した。天保7(1836)年奥医師、法眼。同11年法印。弘化2(1845)年将軍家慶(いえよし)の御匙(おさじ)(侍医)。父の考証学の学風を継いで善本(ぜんぽん)医籍の収集、校訂、復刻に務め、渋江抽斎(しぶえちゅうさい)、森立之(もりたつゆき)、小島宝素(こじまほうそ)らの考証医学者を育てた(『日本漢方典籍辞典』)。 ○校:校勘する。 ○鈔:抄写する。 ○針科侍醫山崎次圭琦:山崎菁園の嗣子(生没年未調査)。山崎菁園、五代目次善、諱は元方。多紀元簡の弟(藍溪の第四子)。次圭は、菁園が亡くなったとき(天保十三年/1842)、西の丸の奥医師。法眼。 ○謄録:謄写抄録する。 ○全藁:文書を書き終える。 ○罹于火:火災発生時期、未詳。
ウラ
○烏有:まったく無くなる。 ○纘:継承する。継続する。 ○緒:事業。 ○未果也:理由、未詳。亡くなったか。 ○頃:近頃。 ○寛:本書の撰者、喜多村直寛。 ○紹續:うけつぐ。 ○囙:「因」の異体。 ○今本:いまに伝わる『霊枢』。具体的には、どの版本によるか、未調査。 ○同異:異同。文字の異なるところ。 ○附目録以存其舊矣:『黃帝内經太素九卷經纂録』の目録と『黃帝内經太素』原目あり。現在知られている仁和寺本と比較すると、卷十六の記載なく、卷二十一「缺」。したがって本書は九針十二原を欠く。(卷二十一は、福井家が所蔵していた。) ○道家者流:『漢書』藝文志:「道家者流、蓋出於史官、歷記成敗存亡禍福古今之道、然後知秉要執本、清虛以自守、卑弱以自持、此君人南面之術也」。 ○纂:編輯する。集める。 ○馬:馬蒔『黃帝内經靈樞註證發微』。 ○張:張介賓『類經』。張志聰『靈樞集注』は、「諸家」に含まれるであろう。 ○兎圍册子:「兎」は「兔」の異体。なお最後の画の点は書かれていない。「免」でもなかろう。「圍」字は、おそらく「園」の誤字か記憶違いであろう。「兔園册子」は、もと民間、村の塾ではやっている読本。のちに、平易な、わかりやすい本。『新五代史』卷五十五˙劉岳傳:「兔園冊者、鄉校俚儒教田夫牧子之所誦也」。 ○若夫上善:楊上善については。 ○宋臣稱隋人:重廣補注黃帝内經素問序:「及隋楊上善纂而爲『太素』」。 ○先生既有詳考:先生とは元堅のことであろうが、その詳考に関しては未詳。あるいは、多紀元胤『醫籍考』卷六を指すか。 ○衍:くわしく展開する。おしひろげる。 ○嘉永戊戌:嘉永に「戊戌」なし。「戊申」であれば嘉永元年(1848)、「庚戌」であれば嘉永三年(1850)。十二支の方が間違えにくいと思うので、嘉永三年か。 ○中秋:旧暦八月十五日。 ○喜多村直寛士栗:喜多村直寛(きたむらただひろ)は幕府医官喜多村槐園(かいえん)の長子で江戸生まれ。字は士栗(しりつ)、通称安斎(あんさい)のち安正(あんせい)、号は栲窓(ごうそう)のち香城(こうじょう)。儒を安積艮斎(あさかごんさい)に学び、江戸医学館の重職に就き、法眼(ほうげん)の位に進んだが、安政4(1857)年故あって辞し、以後、古医籍を研究し、数々の校訂出版と著述活動を行った。明治時代に活躍した栗本鋤雲(くりもとじょうん)はその実弟(『日本漢方典籍辞典』)。 ○學訓堂:直寛の堂号。
2013年12月29日日曜日
素問次注集疏叙
素問次注集疏叙
素問載道之書也固非狹見短識之所可得而窺焉
是以庸下之徒為不可企及英邁之士亦或觀以為迂遠
古義之泯焉無聞未必不職由之可勝歎也乎哉愚
每讀王太僕次注茫乎不得其畔涯乃取玄臺馬氏
鶴臯呉氏景岳張氏注讀之稍得其端緒 皇朝近
世有劉君父子之二識然後素問似無復餘蘊殊不
知古義之所存以王氏為最於是乎擇馬呉張三家
及劉君二識所釋撰次注集疏其間亦有管蠡之攷
ウラ
但以夏蟲之見固不足厠於前人率省而不載有客
謂曰子無啓發之識而欲列作者之林何其不知量
之甚也愚答曰短綆不可以汲深井不若假人之長
以補我短然而比之逞詞鋒弄舌尖以誇於世者其
是非得失果奈何客唯而去是為叙明治六年癸酉
九月十三日山田業廣識于東京小石川富坂町寓居
【訓讀】
素問次注集疏叙
素問は道を載するの書なり。固(まこと)に狹見短識の得て窺う可き所に非ず。
是(ここ)を以て庸下の徒は為に企及す可からず、英邁の士も亦た或いは觀て以て迂遠と為す。
古義の泯(ほろ)びて聞くこと無きは、未だ必ずしも職として之に由らずんばあらずして、歎きに勝つ可けんや。愚
王太僕の次注を讀む每に、茫乎として其の畔涯を得ず。乃ち玄臺馬氏·
鶴臯呉氏·景岳張氏の注を取りて之を讀み、稍や其の端緒を得たり。 皇朝近
世に劉君父子の二識有り。然る後、素問復た餘蘊無きに似たるも、殊に
古義の存する所は、王氏を以て最と為すを知らず。是(ここ)に於いてか馬呉張三家
及び劉君二識の釋する所を擇び、次注集疏を撰す。其の間亦た管蠡の攷有るも、
ウラ
但だ夏蟲の見を以てするのみにして、固(もと)より前人に厠(ま)じるに足らず。率ね省いて載せず。客有りて
謂いて曰く、子、啓發するの識無くして、而して作者の林に列せんと欲す。何ぞ其れ量ることを知らざる
の甚しきや、と。愚、答えて曰く、短綆、以て深井を汲む可からず。人の長を假りて、
以て我が短を補うに若(し)かず。然り而して之を詞鋒を逞しくし、舌尖を弄し、以て世に誇る者と比ぶれば、其の
是非得失、果して奈何(いかん)、と。客、唯して去る。是れを叙と為す。明治六年癸酉
九月十三日、山田業廣、東京小石川富坂町の寓居に識(しる)す。
【注釋】
○素問載道之書也:朱震亨『格致余論』序の冒頭:「素問載道書也」。多紀元簡『素問識』序の冒頭で引用される。『素問識』に「之」字あり。『格致余論』序は次のようにつづく。「詞簡而義深、去古漸遠、衍文錯簡、仍或有之、故非吾儒不能讀」。 ○固:たしかに。当然。 ○狹見短識:見識がせまく浅い。 ○可得:可能をあらわす助動詞の役割をはたす。できる。 ○是以:このため。 ○庸下:凡庸下級。 ○為:そのために。 ○企及:つま先だってやっと達する。努力して到達しようと望む。 ○英邁:才智抜群。 ○以為:~と思う。 ○迂遠:直接役に立たないさま。実際的でない。 ○泯:消滅する。 ○職:もっぱら。主として。「もとより」とも訓む。 ○勝:打ち勝つ。抑制する。 ○愚:自称。謙遜していう。 ○王太僕次注:唐の王冰。その注を次注という。全元起の訓解を初めての注とすると、それに次ぐ。また「次」には、順序立てる、編集するという意味もある。王冰は、全元起本に大幅な順序の変更、編輯をおこなった。 ○茫乎:茫然。知ることがない。ぼやけて曖昧なさま。はっきりしないさま。 ○不得其畔涯:とりとめがない。注の意味している内容を理解できない。意義を確定できない。/畔涯:境界。境域。 ○乃:そこで。 ○玄臺馬氏:馬蒔。明代の医家。字は仲化、玄臺は号。会稽(いま浙江省紹興)のひと。王冰本『素問』は二十四巻本であるが、『漢書』藝文志にしたがって、『素問』『霊枢』とも九巻として、それぞれの『註証発微』を著わした。特に『霊枢註証発微』は、『霊枢』に対するはじめての注釈書として後世重んじられ、経絡経穴に関する注が詳しい。 ○鶴臯呉氏:明代の医家(1552-1620年?)。字は山甫,鶴臯(異体は「皋」)は号で、參黃子とも号した。歙県(いま安徽省)のひと。『素問』に対してすぐれた注も記しているが、経文を一部書き換えたり、篇名をかえたりしている。その注釈書は、『素問呉注』あるいは『呉注素問』などとよばれている。 ○景岳張氏:明代の医家(1563-1640年)。字は會卿、景岳は号。通一子とも号した。もと四川省綿竹のひとで、のちに浙江の會稽(いま紹興)に居をうつした。『素問』『霊枢』を内容によって分類し注をつけ、『類経』三十二巻を著わした。 ○端緒:糸口。 ○ 皇朝:一字空格(敬意をあらわすために文字を空けて書く)あり。 ○近世:ちかごろ。 ○劉君父子之二識:多紀元簡の『素問識』と多紀元堅の『素問紹識』。後漢の霊帝の末裔とされるので、劉姓を称す。 ○餘蘊:残ったところ。あますところ。 ○最:至極。最重要なもの、ひと。 ○於是乎:「於是」に同じ。 ○管蠡之攷:「管蠡」は、「管窺蠡測」の略。自分の見識が浅く狭いことをいう謙遜語。「攷」は「考」の異体。
ウラ
○夏蟲:夏の虫。『莊子』秋水:「井蛙不可以語於海者、拘於虛也。夏蟲不可以語於冰者、篤於時也」。夏の虫は氷のことを語れないし、井の中の蛙は、海を語れない。知識が狭いこと。 ○厠:「廁」の異体。身をその中に置く。 ○子:あなた。 ○啓發之識:ひとびとを啓発する知識。 ○林:同類のものが集まるところ。司馬遷『報任安書』:「列於君子之林矣」。 ○不知量:身のほどを知らない。買いかぶる。 ○愚:自称。 ○短綆不可以汲深井:「綆」は、井戸の水を汲むつるべの縄。短い綆では、深い井戸の水を汲み出すことはできない。『荀子』榮辱:「短綆不可以汲深井之泉、知不幾者不可與及聖人之言」。能力が足りなければ、ものごとを成し遂げられないことの比喩。 ○逞:顕示する。ひけらかす。 ○詞鋒:文章語句が刃のように鋭い。 ○弄:もてあそぶ。たわむれる。 ○舌尖:舌先。口先。発語。 ○是非得失:正しいことと間違っていること、得るところと失うところ。 ○唯:応答の声。「唯唯」であれば、謹んで応諾する意。「唯而不諾」「唯而不對」とつづくことが多いが、そうだとすると、客は納得しなかったことになる。ひとまず、著者の言に納得して去ったと解しておく。 ○叙:「敘」の異体。「序」と同じ。 ○明治六年癸酉:1873年。政変の年。 ○山田業廣:やまだなりひろ(1808~81)。業広は高崎藩医で、字は子勤(しきん)、通称昌栄(しょうえい)、号は椿庭(ちんてい)。朝川善庵(あさかわぜんあん)に儒を、伊沢蘭軒(いざわらんけん)・多紀元堅(たきもとかた)、池田京水(いけだきょうすい)に医を学んだ(『日本漢方典籍辞典』)。 ○小石川富坂町:現文京区。江戸時代には、上・中・下の富坂町があった。明治五年には、もと火除地であった地域に、西富坂町が設置されたという。
素問載道之書也固非狹見短識之所可得而窺焉
是以庸下之徒為不可企及英邁之士亦或觀以為迂遠
古義之泯焉無聞未必不職由之可勝歎也乎哉愚
每讀王太僕次注茫乎不得其畔涯乃取玄臺馬氏
鶴臯呉氏景岳張氏注讀之稍得其端緒 皇朝近
世有劉君父子之二識然後素問似無復餘蘊殊不
知古義之所存以王氏為最於是乎擇馬呉張三家
及劉君二識所釋撰次注集疏其間亦有管蠡之攷
ウラ
但以夏蟲之見固不足厠於前人率省而不載有客
謂曰子無啓發之識而欲列作者之林何其不知量
之甚也愚答曰短綆不可以汲深井不若假人之長
以補我短然而比之逞詞鋒弄舌尖以誇於世者其
是非得失果奈何客唯而去是為叙明治六年癸酉
九月十三日山田業廣識于東京小石川富坂町寓居
【訓讀】
素問次注集疏叙
素問は道を載するの書なり。固(まこと)に狹見短識の得て窺う可き所に非ず。
是(ここ)を以て庸下の徒は為に企及す可からず、英邁の士も亦た或いは觀て以て迂遠と為す。
古義の泯(ほろ)びて聞くこと無きは、未だ必ずしも職として之に由らずんばあらずして、歎きに勝つ可けんや。愚
王太僕の次注を讀む每に、茫乎として其の畔涯を得ず。乃ち玄臺馬氏·
鶴臯呉氏·景岳張氏の注を取りて之を讀み、稍や其の端緒を得たり。 皇朝近
世に劉君父子の二識有り。然る後、素問復た餘蘊無きに似たるも、殊に
古義の存する所は、王氏を以て最と為すを知らず。是(ここ)に於いてか馬呉張三家
及び劉君二識の釋する所を擇び、次注集疏を撰す。其の間亦た管蠡の攷有るも、
ウラ
但だ夏蟲の見を以てするのみにして、固(もと)より前人に厠(ま)じるに足らず。率ね省いて載せず。客有りて
謂いて曰く、子、啓發するの識無くして、而して作者の林に列せんと欲す。何ぞ其れ量ることを知らざる
の甚しきや、と。愚、答えて曰く、短綆、以て深井を汲む可からず。人の長を假りて、
以て我が短を補うに若(し)かず。然り而して之を詞鋒を逞しくし、舌尖を弄し、以て世に誇る者と比ぶれば、其の
是非得失、果して奈何(いかん)、と。客、唯して去る。是れを叙と為す。明治六年癸酉
九月十三日、山田業廣、東京小石川富坂町の寓居に識(しる)す。
【注釋】
○素問載道之書也:朱震亨『格致余論』序の冒頭:「素問載道書也」。多紀元簡『素問識』序の冒頭で引用される。『素問識』に「之」字あり。『格致余論』序は次のようにつづく。「詞簡而義深、去古漸遠、衍文錯簡、仍或有之、故非吾儒不能讀」。 ○固:たしかに。当然。 ○狹見短識:見識がせまく浅い。 ○可得:可能をあらわす助動詞の役割をはたす。できる。 ○是以:このため。 ○庸下:凡庸下級。 ○為:そのために。 ○企及:つま先だってやっと達する。努力して到達しようと望む。 ○英邁:才智抜群。 ○以為:~と思う。 ○迂遠:直接役に立たないさま。実際的でない。 ○泯:消滅する。 ○職:もっぱら。主として。「もとより」とも訓む。 ○勝:打ち勝つ。抑制する。 ○愚:自称。謙遜していう。 ○王太僕次注:唐の王冰。その注を次注という。全元起の訓解を初めての注とすると、それに次ぐ。また「次」には、順序立てる、編集するという意味もある。王冰は、全元起本に大幅な順序の変更、編輯をおこなった。 ○茫乎:茫然。知ることがない。ぼやけて曖昧なさま。はっきりしないさま。 ○不得其畔涯:とりとめがない。注の意味している内容を理解できない。意義を確定できない。/畔涯:境界。境域。 ○乃:そこで。 ○玄臺馬氏:馬蒔。明代の医家。字は仲化、玄臺は号。会稽(いま浙江省紹興)のひと。王冰本『素問』は二十四巻本であるが、『漢書』藝文志にしたがって、『素問』『霊枢』とも九巻として、それぞれの『註証発微』を著わした。特に『霊枢註証発微』は、『霊枢』に対するはじめての注釈書として後世重んじられ、経絡経穴に関する注が詳しい。 ○鶴臯呉氏:明代の医家(1552-1620年?)。字は山甫,鶴臯(異体は「皋」)は号で、參黃子とも号した。歙県(いま安徽省)のひと。『素問』に対してすぐれた注も記しているが、経文を一部書き換えたり、篇名をかえたりしている。その注釈書は、『素問呉注』あるいは『呉注素問』などとよばれている。 ○景岳張氏:明代の医家(1563-1640年)。字は會卿、景岳は号。通一子とも号した。もと四川省綿竹のひとで、のちに浙江の會稽(いま紹興)に居をうつした。『素問』『霊枢』を内容によって分類し注をつけ、『類経』三十二巻を著わした。 ○端緒:糸口。 ○ 皇朝:一字空格(敬意をあらわすために文字を空けて書く)あり。 ○近世:ちかごろ。 ○劉君父子之二識:多紀元簡の『素問識』と多紀元堅の『素問紹識』。後漢の霊帝の末裔とされるので、劉姓を称す。 ○餘蘊:残ったところ。あますところ。 ○最:至極。最重要なもの、ひと。 ○於是乎:「於是」に同じ。 ○管蠡之攷:「管蠡」は、「管窺蠡測」の略。自分の見識が浅く狭いことをいう謙遜語。「攷」は「考」の異体。
ウラ
○夏蟲:夏の虫。『莊子』秋水:「井蛙不可以語於海者、拘於虛也。夏蟲不可以語於冰者、篤於時也」。夏の虫は氷のことを語れないし、井の中の蛙は、海を語れない。知識が狭いこと。 ○厠:「廁」の異体。身をその中に置く。 ○子:あなた。 ○啓發之識:ひとびとを啓発する知識。 ○林:同類のものが集まるところ。司馬遷『報任安書』:「列於君子之林矣」。 ○不知量:身のほどを知らない。買いかぶる。 ○愚:自称。 ○短綆不可以汲深井:「綆」は、井戸の水を汲むつるべの縄。短い綆では、深い井戸の水を汲み出すことはできない。『荀子』榮辱:「短綆不可以汲深井之泉、知不幾者不可與及聖人之言」。能力が足りなければ、ものごとを成し遂げられないことの比喩。 ○逞:顕示する。ひけらかす。 ○詞鋒:文章語句が刃のように鋭い。 ○弄:もてあそぶ。たわむれる。 ○舌尖:舌先。口先。発語。 ○是非得失:正しいことと間違っていること、得るところと失うところ。 ○唯:応答の声。「唯唯」であれば、謹んで応諾する意。「唯而不諾」「唯而不對」とつづくことが多いが、そうだとすると、客は納得しなかったことになる。ひとまず、著者の言に納得して去ったと解しておく。 ○叙:「敘」の異体。「序」と同じ。 ○明治六年癸酉:1873年。政変の年。 ○山田業廣:やまだなりひろ(1808~81)。業広は高崎藩医で、字は子勤(しきん)、通称昌栄(しょうえい)、号は椿庭(ちんてい)。朝川善庵(あさかわぜんあん)に儒を、伊沢蘭軒(いざわらんけん)・多紀元堅(たきもとかた)、池田京水(いけだきょうすい)に医を学んだ(『日本漢方典籍辞典』)。 ○小石川富坂町:現文京区。江戸時代には、上・中・下の富坂町があった。明治五年には、もと火除地であった地域に、西富坂町が設置されたという。
2013年12月28日土曜日
醫經訓詁小引
醫經訓詁小引
余弱冠每讀醫經苦其訓詁之難通者嗣後讀
素靈二識及難經疏證得稍就其緒劉君家世
精於醫經初學者當以此數書為津梁但其說
散在各篇倉卒際或有(・)不便撿閲者(・)乃鈔訓詁
之可以通於漢唐以還醫籍者以輯醫經訓詁
若干卷旁採素問紹識及先友澁江全善所纂
靈樞講義以補原識未言及者若夫全經大義
精意自有各家注解在焉豈俟斯區々捷徑之
冊子乎哉明治二年己巳孟冬山田業廣識于
ウラ
峯來書屋
【訓讀】
醫經訓詁小引
余、弱冠にして醫經を讀む每に、其の訓詁の通じ難き者(こと)に苦しむ。嗣後、
素靈二識及び難經疏證を讀みて、稍や其の緒に就くを得。劉君が家、世々
醫經に精(くわ)し。初學の者、當に此の數書を以て津梁と為すべし。但だ其の說
各篇に散在す。倉卒の際、或いは撿閲に便ならず。乃ち訓詁
の以て漢唐以還の醫籍に通ず可き者を鈔して、以て醫經の訓詁
若干卷を輯す。旁ら素問紹識、及び先友澁江全善纂する所の
靈樞講義を採り、以て原識の未だ言及せざる者を補う。若し夫(そ)れ全經の大義
精意は、自ら各家の注解に在る有り。豈に斯の區々たる捷徑の
冊子を俟たんや。明治二年己巳孟冬、山田業廣
ウラ
峯來書屋に識(しる)す。
【注釋】
○小引:文章や書籍の前に置かれる簡単な説明。この書を起稿した縁起などを述べる。 ○弱冠:『禮記』曲禮上:「二十曰弱冠」。孔穎達˙正義:「二十成人、初加冠、體猶未壯、故曰弱也」。男子二十歲前後をいう。 ○醫經:『黄帝内経』(『素問』『霊枢』)『難経』など。 ○嗣後:こののち。以後。 ○素靈二識:多紀元簡の『素問識』と『霊枢識』。 ○難經疏證:多紀元胤(もとつぐ)(1789~1827)の著になる『難経』の注解書。全2巻2冊。文政2(1819)年成、同5(1822)年刊。漢文。考証医家の元胤が『難経集注』を底本とし、諸文献を引用し、父多紀元簡(もとやす)や弟元堅(もとかた)の説も取り入れて完成したわが国における『難経』研究の精華。巻首に「難経解題(なんぎょうかいだい)」1篇を付す。『皇漢医学叢書』に活字収録され、中国の『難経』研究にも少なからぬ影響を与えた。人民衛生出版社活字本(1957)もある。『難経古注集成』に影印収録されている(『日本漢方典籍辞典』)。 ○就緒:物事の見通しがついて、事を始める。着手する。『詩經』大雅˙常武:「不留不處、三事就緒」。 ○劉:多紀家の祖先は後漢の霊帝(劉氏)であるという。 ○津梁:渡し場と橋。人を導く手引きとなるものの比喩。 ○倉卒:突然なこと。急なこと。忙しく慌ただしいこと。あわてて事を行うこと。 ○或(・)有不便撿閲者(・):「或」と「者」字に消去記号あり。/撿閲:「撿」は「檢」に同じ。検閲。調べあらためる。 ○乃:そこで。 ○鈔:「抄」に同じ。書写する。書物などの一部分を抜き出して書く。 ○以還:以来。以後。 ○輯:蒐録して整理する。あつめてまとめる。 ○旁:別に。その他として。 ○素問紹識:多紀元堅(たきもとかた)(1795~1857)の著になる『素問』の注釈書。全4巻。弘化3(1846)年自序。「紹識」とは父多紀元簡(もとやす)の『素問識(そもんし)』を紹す(継ぐ・承ける)の意で、『素問識』の時点では未発見であった仁和寺本『太素』をはじめとする資料を用い、『素問識』を補翼する目的で執筆されたものである。未刊で写本として伝えられたが、その1写本が中国に渡って『皇漢医学叢書』に活字収録された。石原明(いしはらあきら)旧蔵本(小島宝素[こじまほうそ]手沢本)が『黄帝内経古注選集』に影印収録され、さらに自筆稿の最善本(大阪大学懐徳堂文庫本)の影印本(北里東医研医史研、1996)、またそれによる活字校訂本(日本内経学会、1996)が出版されている。なお、本書の前段階となった元堅の著書に『素問参楊(そもんさんよう)』(新発現の楊上善注を参ずるという意)なる書もある(『日本漢方典籍辞典』)。 ○先友:今は亡き友。 ○澁江全善:渋江抽斎(しぶえちゅうさい)(1805~58)。抽斎は森鷗外(もりおうがい)の歴史小説によって知られる考証医家で、弘前藩医。名は全善(かねよし)、字は道純(どうじゅん)また子良(しりょう)。狩谷棭斎(かりやえきさい)・市野迷庵(いちのめいあん)に儒を、伊沢蘭軒(いざわらんけん)・池田京水(いけだきょうすい)に医を学んだ。多紀元堅(たきもとかた)に才を愛され、江戸医学館講師となり、古医籍の研究を行った(『日本漢方典籍辞典』)。 ○纂:編輯する。あつめる。 ○靈樞講義:『黄帝内経霊枢』の校注書。全25巻。弘化元(1844)年、江戸医学館で同書を講義することを契機に作成されたもので、その後の補訂も加えられている。抽斎の謹厳実直な性格を反映し、『太素』『甲乙経』などの典籍と詳細な校合がなされるが、私見は抑制してある。考証学的『霊枢』研究の最高峰に位置する書で、抽斎の代表作といえる。刊行されるには至らず、抽斎自筆本(京大富士川本)が『黄帝内経古注選集』に影印収録される。伊沢氏旧蔵本(静嘉堂本)や山田業広(やまだなりひろ)旧蔵本(東大鶚軒本)も伝えられる(『日本漢方典籍辞典』)。 ○原識:『素問識』と『霊枢識』。 ○若夫:~に関しては。 ○大義:経文中の要義。精要なところ。 ○精意:精しく深い意味。 ○區々:謙遜の語。小さな。わずかな言うに足りない。つまらない。 ○捷徑:近道。正道によらず簡便な方法。 ○明治二年己巳:1869年。この年十二月、高崎藩の医学校督学となる。明治四年に廃藩置県。 ○孟冬:陰暦十月。 ○山田業廣:(やまだなりひろ)(1808~1881)。業広は高崎藩医で、字は子勤(しきん)、通称昌栄(しょうえい)、号は椿庭(ちんてい)。朝川善庵(あさかわぜんあん)に儒を、伊沢蘭軒(いざわらんけん)・多紀元堅(たきもとかた)、池田京水(いけだきょうすい)に医を学んだ(『日本漢方典籍辞典』)。
ウラ
○峯來書屋:山田業廣の書斎名であろう。
【跋】
余於安政戊午草此書後明治己巳抄素靈二識顏曰
醫經訓詁分卷凡九抄冩卒業以挿架 業廣
安政五年戊午七月廿八日校讀了 業廣
【訓讀】
余、安政戊午に此の書を草す。後の明治己巳に素靈二識を抄す。顏して
醫經訓詁と曰う。卷に分かつこと凡(すべ)て九、抄冩、業を卒え、以て架に挿す。 業廣
安政五年戊午七月廿八日、校讀了(おわ)んぬ。 業廣
【注釋】
○安政戊午:安政5年(1858)。 ○草:起稿する。草稿を書く。 ○明治己巳:1869年。 ○抄:写す。抄写する。 ○素靈二識:『素問識』と『霊枢識』。 ○顏:題名を付ける。 ○凡九:全部で九巻。 ○卒業:完成する。 ○挿架:書架に並んだ本の間に差し入れる。「挿」は「插」の異体。
余弱冠每讀醫經苦其訓詁之難通者嗣後讀
素靈二識及難經疏證得稍就其緒劉君家世
精於醫經初學者當以此數書為津梁但其說
散在各篇倉卒際或有(・)不便撿閲者(・)乃鈔訓詁
之可以通於漢唐以還醫籍者以輯醫經訓詁
若干卷旁採素問紹識及先友澁江全善所纂
靈樞講義以補原識未言及者若夫全經大義
精意自有各家注解在焉豈俟斯區々捷徑之
冊子乎哉明治二年己巳孟冬山田業廣識于
ウラ
峯來書屋
【訓讀】
醫經訓詁小引
余、弱冠にして醫經を讀む每に、其の訓詁の通じ難き者(こと)に苦しむ。嗣後、
素靈二識及び難經疏證を讀みて、稍や其の緒に就くを得。劉君が家、世々
醫經に精(くわ)し。初學の者、當に此の數書を以て津梁と為すべし。但だ其の說
各篇に散在す。倉卒の際、或いは撿閲に便ならず。乃ち訓詁
の以て漢唐以還の醫籍に通ず可き者を鈔して、以て醫經の訓詁
若干卷を輯す。旁ら素問紹識、及び先友澁江全善纂する所の
靈樞講義を採り、以て原識の未だ言及せざる者を補う。若し夫(そ)れ全經の大義
精意は、自ら各家の注解に在る有り。豈に斯の區々たる捷徑の
冊子を俟たんや。明治二年己巳孟冬、山田業廣
ウラ
峯來書屋に識(しる)す。
【注釋】
○小引:文章や書籍の前に置かれる簡単な説明。この書を起稿した縁起などを述べる。 ○弱冠:『禮記』曲禮上:「二十曰弱冠」。孔穎達˙正義:「二十成人、初加冠、體猶未壯、故曰弱也」。男子二十歲前後をいう。 ○醫經:『黄帝内経』(『素問』『霊枢』)『難経』など。 ○嗣後:こののち。以後。 ○素靈二識:多紀元簡の『素問識』と『霊枢識』。 ○難經疏證:多紀元胤(もとつぐ)(1789~1827)の著になる『難経』の注解書。全2巻2冊。文政2(1819)年成、同5(1822)年刊。漢文。考証医家の元胤が『難経集注』を底本とし、諸文献を引用し、父多紀元簡(もとやす)や弟元堅(もとかた)の説も取り入れて完成したわが国における『難経』研究の精華。巻首に「難経解題(なんぎょうかいだい)」1篇を付す。『皇漢医学叢書』に活字収録され、中国の『難経』研究にも少なからぬ影響を与えた。人民衛生出版社活字本(1957)もある。『難経古注集成』に影印収録されている(『日本漢方典籍辞典』)。 ○就緒:物事の見通しがついて、事を始める。着手する。『詩經』大雅˙常武:「不留不處、三事就緒」。 ○劉:多紀家の祖先は後漢の霊帝(劉氏)であるという。 ○津梁:渡し場と橋。人を導く手引きとなるものの比喩。 ○倉卒:突然なこと。急なこと。忙しく慌ただしいこと。あわてて事を行うこと。 ○或(・)有不便撿閲者(・):「或」と「者」字に消去記号あり。/撿閲:「撿」は「檢」に同じ。検閲。調べあらためる。 ○乃:そこで。 ○鈔:「抄」に同じ。書写する。書物などの一部分を抜き出して書く。 ○以還:以来。以後。 ○輯:蒐録して整理する。あつめてまとめる。 ○旁:別に。その他として。 ○素問紹識:多紀元堅(たきもとかた)(1795~1857)の著になる『素問』の注釈書。全4巻。弘化3(1846)年自序。「紹識」とは父多紀元簡(もとやす)の『素問識(そもんし)』を紹す(継ぐ・承ける)の意で、『素問識』の時点では未発見であった仁和寺本『太素』をはじめとする資料を用い、『素問識』を補翼する目的で執筆されたものである。未刊で写本として伝えられたが、その1写本が中国に渡って『皇漢医学叢書』に活字収録された。石原明(いしはらあきら)旧蔵本(小島宝素[こじまほうそ]手沢本)が『黄帝内経古注選集』に影印収録され、さらに自筆稿の最善本(大阪大学懐徳堂文庫本)の影印本(北里東医研医史研、1996)、またそれによる活字校訂本(日本内経学会、1996)が出版されている。なお、本書の前段階となった元堅の著書に『素問参楊(そもんさんよう)』(新発現の楊上善注を参ずるという意)なる書もある(『日本漢方典籍辞典』)。 ○先友:今は亡き友。 ○澁江全善:渋江抽斎(しぶえちゅうさい)(1805~58)。抽斎は森鷗外(もりおうがい)の歴史小説によって知られる考証医家で、弘前藩医。名は全善(かねよし)、字は道純(どうじゅん)また子良(しりょう)。狩谷棭斎(かりやえきさい)・市野迷庵(いちのめいあん)に儒を、伊沢蘭軒(いざわらんけん)・池田京水(いけだきょうすい)に医を学んだ。多紀元堅(たきもとかた)に才を愛され、江戸医学館講師となり、古医籍の研究を行った(『日本漢方典籍辞典』)。 ○纂:編輯する。あつめる。 ○靈樞講義:『黄帝内経霊枢』の校注書。全25巻。弘化元(1844)年、江戸医学館で同書を講義することを契機に作成されたもので、その後の補訂も加えられている。抽斎の謹厳実直な性格を反映し、『太素』『甲乙経』などの典籍と詳細な校合がなされるが、私見は抑制してある。考証学的『霊枢』研究の最高峰に位置する書で、抽斎の代表作といえる。刊行されるには至らず、抽斎自筆本(京大富士川本)が『黄帝内経古注選集』に影印収録される。伊沢氏旧蔵本(静嘉堂本)や山田業広(やまだなりひろ)旧蔵本(東大鶚軒本)も伝えられる(『日本漢方典籍辞典』)。 ○原識:『素問識』と『霊枢識』。 ○若夫:~に関しては。 ○大義:経文中の要義。精要なところ。 ○精意:精しく深い意味。 ○區々:謙遜の語。小さな。わずかな言うに足りない。つまらない。 ○捷徑:近道。正道によらず簡便な方法。 ○明治二年己巳:1869年。この年十二月、高崎藩の医学校督学となる。明治四年に廃藩置県。 ○孟冬:陰暦十月。 ○山田業廣:(やまだなりひろ)(1808~1881)。業広は高崎藩医で、字は子勤(しきん)、通称昌栄(しょうえい)、号は椿庭(ちんてい)。朝川善庵(あさかわぜんあん)に儒を、伊沢蘭軒(いざわらんけん)・多紀元堅(たきもとかた)、池田京水(いけだきょうすい)に医を学んだ(『日本漢方典籍辞典』)。
ウラ
○峯來書屋:山田業廣の書斎名であろう。
【跋】
余於安政戊午草此書後明治己巳抄素靈二識顏曰
醫經訓詁分卷凡九抄冩卒業以挿架 業廣
安政五年戊午七月廿八日校讀了 業廣
【訓讀】
余、安政戊午に此の書を草す。後の明治己巳に素靈二識を抄す。顏して
醫經訓詁と曰う。卷に分かつこと凡(すべ)て九、抄冩、業を卒え、以て架に挿す。 業廣
安政五年戊午七月廿八日、校讀了(おわ)んぬ。 業廣
【注釋】
○安政戊午:安政5年(1858)。 ○草:起稿する。草稿を書く。 ○明治己巳:1869年。 ○抄:写す。抄写する。 ○素靈二識:『素問識』と『霊枢識』。 ○顏:題名を付ける。 ○凡九:全部で九巻。 ○卒業:完成する。 ○挿架:書架に並んだ本の間に差し入れる。「挿」は「插」の異体。
2013年12月27日金曜日
醫經聲類跋
(醫經聲類再稿跋)
慶應三年丁卯十月再稿 四年戊辰三月十七/日卒業椿庭業廣
醫經聲類跋
余丙午罹災架藏烏有筆研無聊於是創意
輯傷寒雜病論類纂卅餘卷尋欲及素靈而
其書洪翰未遑因先以國字分其聲類但頭緒
甚夥取彼而遺此蠅頭抹摋殆不可讀終倦而廢
之又思年已逾耳順在今未就他日更增聾聵恐
無所成乃取素靈難經三書且鈔且校自冬至春
比舊稿雖稍改面目而遺漏不鮮漫裝為三卷
以達宿志此特便蒙云耳若夫類纂全書以期
大成則責在子弟也慶應戊辰三月山田業廣識
ウラ
于江戸本郷椿庭樓上
(時征討使入于江戸城門晝閉/人情匈〃余亦有移居于上毛之命
酸鼻之餘筆于此)
【訓讀】
醫經聲類跋
余、丙午に災に罹(かか)り、架藏烏有し、筆研無聊す。是(ここ)に於いて創意し、
傷寒雜病論類纂卅餘卷を輯す。尋(つ)いで素靈に及ばんと欲す。而れども
其の書洪翰にして未だ遑(いとま)あらず。因りて先ず國字を以て其の聲類に分かつ。但だ頭緒
甚だ夥しくして、彼を取りて此を遺(のこ)し、蠅頭抹摋して、殆ど讀む可からず。終(つい)に倦みて
之を廢す。又た思うに年已に耳順を逾ゆ。今に在りても未だ就(な)らず。他日は更に聾聵を增し、恐らくは
成す所無からん。乃ち素靈難經の三書を取り、且つ鈔し且かつ校し、冬自り春に至る。
舊稿に比して、稍や面目を改むと雖も、而して遺漏鮮(すくな)からず。漫(そぞ)ろに裝して三卷と為し、
以て宿志を達す。此れ特に蒙に便なりと云うのみ。若し夫れ全書を類纂し、以て
大成を期すは、則ち責は子弟に在るなり。慶應戊辰三月、山田業廣
ウラ
江戸本郷椿庭樓上に識(しる)す。
(時に征討使、江戸に入り、城門晝に閉づ。人情匈々たり。余も亦た居を上毛に移すの命有り。酸鼻の餘り、此に筆す。)
【注釋】
○聲類:「聲類」とは、声韻学では声母を指し、形声字の声符をいうが、ここでは、音声順(いろは順)に医学用語を分類した、という意味。下文を参照。 ○丙午:弘化三年(1846)。 ○罹災:江戸本郷春木町の住居、火災に遭う。本郷弓町に居を移す。 ○架藏:棚に所蔵した書物。 ○烏有:全くなくなる。 ○筆研:ふでと硯。ひろく文具。筆をとってなにかを書き留める。 ○無聊:することがなくなる。 ○創意:新しいことをはじめる。 ○輯:あつめる。 ○傷寒雜病論類纂卅餘卷:嘉永二年(1849)、草稿。三十三巻。現在、京都大学所蔵。 ○尋:すぐに。まもなく。 ○素靈:『素問』と『霊枢』。 ○洪翰:「浩瀚」に同じ。広大多数。 ○國字:かな。 ○頭緒:端緒。 ○蠅頭:ハエの頭のように小さなもの(文字)の比喩。 ○抹摋:「抹殺」「抹煞」に同じ。消しさる。 ○耳順:『論語』為政:「六十而耳順」。六十歳。 ○未就:完成にいたらない。 ○他日:将来。 ○聾聵:耳が遠い。無知。 ○且鈔且校:筆写すると同時に校正もする。 ○改面目:面目を一新する。もとのものを改めて新しい形をなす。 ○漫:いい加減に。きままに。謙遜の辞。 ○裝:包裝する。装丁する。 ○宿志:宿願。もともとあったこころざし。 ○便蒙:初学者·こども(童蒙)·理解のおそいひと(蒙昧)に便利である。 ○若夫:~に関しては。 ○類纂:分類編纂する。 ○全書:書物全体。 ○期大成:大きな成就をなしとげる、待つ、期待する。 ○責:責務。 ○子弟:森枳園『椿庭山田先生墓碣』によれば、「門弟凡そ三百名」という。 ○慶應戊辰:慶応 四年(1868)。 ○山田業廣:やまだなりひろ(1808~81)。業広は高崎藩医で、字は子勤(しきん)、通称昌栄(しょうえい)、号は椿庭(ちんてい)。朝川善庵(あさかわぜんあん)に儒を、伊沢蘭軒(いざわらんけん)・多紀元堅(たきもとかた)、池田京水(いけだきょうすい)に医を学んだ(『日本漢方典籍辞典』)。
ウラ
○江戸本郷椿庭樓:「椿」は、住まいの春木町の「春」と「木」の合字。 ○征討使:戊辰戦争時のいわゆる官軍。有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍。四月四日に江戸城明け渡しとなる。 ○匈〃:乱れて不安なさま。 ○上毛:上野国(こうづけのくに)。「上州」。高崎藩は上野国群馬郡にあった。 ○酸鼻:泣きたくなるとき、鼻が酸っぱいようなにおいを感じる。悲痛なさま。悲しくて泣きたくなる。
慶應三年丁卯十月再稿 四年戊辰三月十七/日卒業椿庭業廣
醫經聲類跋
余丙午罹災架藏烏有筆研無聊於是創意
輯傷寒雜病論類纂卅餘卷尋欲及素靈而
其書洪翰未遑因先以國字分其聲類但頭緒
甚夥取彼而遺此蠅頭抹摋殆不可讀終倦而廢
之又思年已逾耳順在今未就他日更增聾聵恐
無所成乃取素靈難經三書且鈔且校自冬至春
比舊稿雖稍改面目而遺漏不鮮漫裝為三卷
以達宿志此特便蒙云耳若夫類纂全書以期
大成則責在子弟也慶應戊辰三月山田業廣識
ウラ
于江戸本郷椿庭樓上
(時征討使入于江戸城門晝閉/人情匈〃余亦有移居于上毛之命
酸鼻之餘筆于此)
【訓讀】
醫經聲類跋
余、丙午に災に罹(かか)り、架藏烏有し、筆研無聊す。是(ここ)に於いて創意し、
傷寒雜病論類纂卅餘卷を輯す。尋(つ)いで素靈に及ばんと欲す。而れども
其の書洪翰にして未だ遑(いとま)あらず。因りて先ず國字を以て其の聲類に分かつ。但だ頭緒
甚だ夥しくして、彼を取りて此を遺(のこ)し、蠅頭抹摋して、殆ど讀む可からず。終(つい)に倦みて
之を廢す。又た思うに年已に耳順を逾ゆ。今に在りても未だ就(な)らず。他日は更に聾聵を增し、恐らくは
成す所無からん。乃ち素靈難經の三書を取り、且つ鈔し且かつ校し、冬自り春に至る。
舊稿に比して、稍や面目を改むと雖も、而して遺漏鮮(すくな)からず。漫(そぞ)ろに裝して三卷と為し、
以て宿志を達す。此れ特に蒙に便なりと云うのみ。若し夫れ全書を類纂し、以て
大成を期すは、則ち責は子弟に在るなり。慶應戊辰三月、山田業廣
ウラ
江戸本郷椿庭樓上に識(しる)す。
(時に征討使、江戸に入り、城門晝に閉づ。人情匈々たり。余も亦た居を上毛に移すの命有り。酸鼻の餘り、此に筆す。)
【注釋】
○聲類:「聲類」とは、声韻学では声母を指し、形声字の声符をいうが、ここでは、音声順(いろは順)に医学用語を分類した、という意味。下文を参照。 ○丙午:弘化三年(1846)。 ○罹災:江戸本郷春木町の住居、火災に遭う。本郷弓町に居を移す。 ○架藏:棚に所蔵した書物。 ○烏有:全くなくなる。 ○筆研:ふでと硯。ひろく文具。筆をとってなにかを書き留める。 ○無聊:することがなくなる。 ○創意:新しいことをはじめる。 ○輯:あつめる。 ○傷寒雜病論類纂卅餘卷:嘉永二年(1849)、草稿。三十三巻。現在、京都大学所蔵。 ○尋:すぐに。まもなく。 ○素靈:『素問』と『霊枢』。 ○洪翰:「浩瀚」に同じ。広大多数。 ○國字:かな。 ○頭緒:端緒。 ○蠅頭:ハエの頭のように小さなもの(文字)の比喩。 ○抹摋:「抹殺」「抹煞」に同じ。消しさる。 ○耳順:『論語』為政:「六十而耳順」。六十歳。 ○未就:完成にいたらない。 ○他日:将来。 ○聾聵:耳が遠い。無知。 ○且鈔且校:筆写すると同時に校正もする。 ○改面目:面目を一新する。もとのものを改めて新しい形をなす。 ○漫:いい加減に。きままに。謙遜の辞。 ○裝:包裝する。装丁する。 ○宿志:宿願。もともとあったこころざし。 ○便蒙:初学者·こども(童蒙)·理解のおそいひと(蒙昧)に便利である。 ○若夫:~に関しては。 ○類纂:分類編纂する。 ○全書:書物全体。 ○期大成:大きな成就をなしとげる、待つ、期待する。 ○責:責務。 ○子弟:森枳園『椿庭山田先生墓碣』によれば、「門弟凡そ三百名」という。 ○慶應戊辰:慶応 四年(1868)。 ○山田業廣:やまだなりひろ(1808~81)。業広は高崎藩医で、字は子勤(しきん)、通称昌栄(しょうえい)、号は椿庭(ちんてい)。朝川善庵(あさかわぜんあん)に儒を、伊沢蘭軒(いざわらんけん)・多紀元堅(たきもとかた)、池田京水(いけだきょうすい)に医を学んだ(『日本漢方典籍辞典』)。
ウラ
○江戸本郷椿庭樓:「椿」は、住まいの春木町の「春」と「木」の合字。 ○征討使:戊辰戦争時のいわゆる官軍。有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍。四月四日に江戸城明け渡しとなる。 ○匈〃:乱れて不安なさま。 ○上毛:上野国(こうづけのくに)。「上州」。高崎藩は上野国群馬郡にあった。 ○酸鼻:泣きたくなるとき、鼻が酸っぱいようなにおいを感じる。悲痛なさま。悲しくて泣きたくなる。
2013年12月23日月曜日
前漢の経穴人形
前漢の経穴人形が発見されたニュースです。
猪飼祥夫先生提供です。
成都"老官山"汉墓出土遗物620余件、简牍920余支
扁鹊派医书出土 专家:研究价值高于马王堆医书
成都老官山汉墓发现医简 确认为扁鹊学派失传医书
猪飼祥夫先生提供です。
成都"老官山"汉墓出土遗物620余件、简牍920余支
扁鹊派医书出土 专家:研究价值高于马王堆医书
成都老官山汉墓发现医简 确认为扁鹊学派失传医书
2013年12月7日土曜日
2013年12月8日日曜講座会場変更のご案内
日本内経医学会日曜講座参加者各位
いつも日本内経医学会日曜講座にご参加いただき、ありがとうございます。
すでに日曜講座等でご案内していますとおり、平成25年12月8日(第2日曜日)の日曜講座の会場を、以下の通り変更させて頂きます。
いつも日本内経医学会日曜講座にご参加いただき、ありがとうございます。
すでに日曜講座等でご案内していますとおり、平成25年12月8日(第2日曜日)の日曜講座の会場を、以下の通り変更させて頂きます。
ご迷惑をおかけして申し訳ございませんが、ご理解ご了承のほど、よろしくお願いいたします。
①中級クラス(宮川、岩井): 赤羽会館3階 第2集会室
東京都北区赤羽南1-13-1 JR赤羽駅東口徒歩5分
【赤羽駅からの道順】
赤羽駅東口を出てすぐ右にある交番の角を右に曲がり
ミスタードーナツの前の横断歩道を渡って立ち食いそば屋の
角を右に50メートルほど線路沿いに進みます。左手に見えて
くる庄やとパチンコ屋の間を左に曲がり真っ直ぐ進むと
大通りのスクランブル交差点にでますので、横断したところ
にある消防署の左側の道を真っ直ぐ行った西友の向かいに
赤羽会館があります。
②初級クラス(荒川、林): 鶯谷書院 東京都台東区根岸1-1-35窪田国際特許ビル4階
JR鶯谷駅南口から徒歩3~4分
【鶯谷駅からの道順】
鶯谷駅南口を降りてすぐ左に曲がり、跨線橋を渡ります。
階段を降りて、右手のトンネルをくぐり、右に曲がると、
左方向に線路沿いの細い道をたどります。広い道に出て
左後方に曲り、3軒目のビルの4階です。
隣には鰻屋の宮川、正面には上野郵便局があります。
①中級クラス(宮川、岩井): 赤羽会館3階 第2集会室
東京都北区赤羽南1-13-1 JR赤羽駅東口徒歩5分
【赤羽駅からの道順】
赤羽駅東口を出てすぐ右にある交番の角を右に曲がり
ミスタードーナツの前の横断歩道を渡って立ち食いそば屋の
角を右に50メートルほど線路沿いに進みます。左手に見えて
くる庄やとパチンコ屋の間を左に曲がり真っ直ぐ進むと
大通りのスクランブル交差点にでますので、横断したところ
にある消防署の左側の道を真っ直ぐ行った西友の向かいに
赤羽会館があります。
②初級クラス(荒川、林): 鶯谷書院 東京都台東区根岸1-1-35窪田国際特許ビル4階
JR鶯谷駅南口から徒歩3~4分
【鶯谷駅からの道順】
鶯谷駅南口を降りてすぐ左に曲がり、跨線橋を渡ります。
階段を降りて、右手のトンネルをくぐり、右に曲がると、
左方向に線路沿いの細い道をたどります。広い道に出て
左後方に曲り、3軒目のビルの4階です。
隣には鰻屋の宮川、正面には上野郵便局があります。
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