2022年7月9日土曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 04

  (4)楊上と楊上善は、いずれも弘文館直学士である。墓誌は、「楊上が解褐〔平民から仕官〕して弘文館学士に除せられた」というが、「学士」ではなく「直学士」とすべきだと疑う。唐代の官制では、弘文館はみな他の官と兼任であり、五品以上は学士であり、六品以下を直学士という。五品以上は高級官僚であり、唐代では「具員〔1〕」という。楊上が道士あるいは隠士から、直接学士に除せられるのは不可能で、直学士とすべきである。楊上は出仕した後、長期にわたって六品官を務めたことから見ると、その解褐して除せられたのは直学士とすべきで、学士ではない。楊上善にも弘文館学士に任ぜられた記載があるが、同じく直学士とすべきである。詳しくは、以下の(6)を参照。


    〔1〕具員:百度百科:五品以上官及京常參官的名冊。唐制,六品以下官皆由吏部註擬,五品以上官則由君相選授。自貞觀以後,除拜五品以上官,中書門下必立簿記其課績、歷任、官諱等,以供遷轉依憑。開元四年(公元716年),員外郎及御史等京常參官亦改由君相任命,故其名亦列入具員簿中。安史亂後,其制久廢。德宗、憲宗時復置。五代後唐因之。


2022年7月8日金曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 03

  (3)楊上の学風は楊上善と同じである。墓誌は楊上に隠士の風が少ないことを述べるのに多くの筆墨を費やしている。特に「年十有一,虛襟遠岫,玩王孫之芳草,對隱士之長松〔年十有一,虛襟(虚心)遠岫(遠き峰),王孫の芳草を玩(もてあそ)び,隱士の長松に對す〕」という。もし彼が在家の隠居にすぎなかったなら、この年のことを記録する必要はない。したがってこれは彼が出家して道観に入った年にちがいない。唐代の人である盧蔵用〔664ごろ~713ごろ?〕は終南山に隠居して道を修め、『芳草賦』を著わしたが、後に出仕し、「終南捷径〔終南山は仕官の近道〕」とそしられた〔1〕。この墓誌にいう「王孫の芳草を玩(もてあそ)ぶ」は、楊上が若い頃道士であったことを指しているのかも知れない。しかし「隠士〔隠居して官に仕えないひと〕」には道士が含まれるし、当然のことながら楊上がのちに還俗して隠士になったことも排除できない。中国古代の医学と道教には密接で複雑な関係があり、道士の多くは医学に通じていた。墓誌には、楊上は「於是博綜奇文,多該異說,紫臺丹篋之記,三清八會之書,莫不得自天然,非由學至〔是こに於いて博く奇文を綜(あつ)め,多く異說を該(か)ね,紫臺丹篋の記,三清八會の書,天然に自(よ)るを得ざる莫く,學に由って至るに非ず〕」とある。これは彼が道教の書に精通していたことを言っているが、「異說」と「八會」の書には医書が含まれているはずである。『漢武帝内伝』には、「上元夫人語帝曰:阿母今以瓊笈秘韞,發紫臺之文,賜汝八會之書,五嶽真形,可謂至珍且寶〔上元夫人 帝に語って曰わく:「阿母 今ま瓊笈の秘韞(玉飾りの書箱の中の道書)を紫臺〔道家のいう神仙の居所〕の文を發(ひら)き,汝に八會の書,五嶽の真形を賜う。至って珍且つ寶と謂っつ可し」〕」とある。中国医学はまた人体内の八つの気血が会合するツボを八会と称する。『史記』扁鵲倉公伝に、「會氣閉而不通〔會氣 閉じて通ぜず〕」とあり、張守節の『正義』は『八十一難』を引用して、「府會太倉,藏會季脅,筋會陽陵泉,髓會絕骨,血會膈俞,骨會大杼,脈會太淵,氣會三焦,此謂八會也〔府會は太倉,藏會は季脅,筋會は陽陵泉,髓會は絕骨,血會は膈俞,骨會は大杼,脈會は太淵,氣會は三焦,此れを八會と謂うなり〕」という。墓誌の下文、「又復留情彼岸〔又た復た情を彼岸に留む〕〔2〕」以下の文は、楊上が仏典にも通暁していたことを言っている。「學包四徹〔學は四徹を包(か)ね〕〔3〕、識綜九流〔識は九流を綜(あつ)む〕〔4〕」は、その学風の概括である。簡単に言えば、楊上は、基本的に道教の学者であり、同時に医学・仏学にも通暁していた。残念なことに、墓誌にはその著述の情況の記載がない。楊上善には道家の著作が6種40巻、医学の著作が3種43巻、仏学の著作が2種16巻、全部で10〔ママ〕種99巻がある。墓誌に述べられている楊上の学風は、楊上善の著述状況と完全に一致しているため、彼らは事実上同一人物であると推定するのが合理的である。


    〔1〕『新唐書』盧藏用傳:司馬承禎嘗召至闕下,將還山,藏用指終南曰:「此中大有嘉處」。承禎徐曰:「以僕視之,仕宦之捷徑耳」。藏用慚。

    〔2〕彼岸:佛教用語。指解脫後的境界,為涅槃的異稱。

    〔3〕四徹:未詳。仏典に用例が多い。あるいは四境と同じで、四方國境のことか。

    〔4〕九流:先秦至漢初的九大學術流派。包括儒家、道家、陰陽家、法家、名家、墨家、縱橫家、雜家、農家。


2022年7月7日木曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 02

  (2)楊上の籍貫〔本籍〕。墓誌は「其の先は弘農華陰の人」〔1〕という。これは楊氏が郡望〔郡の名門〕であることを示している。〔墓誌にある〕「稷澤」と「岐山」は、楊氏が周代の姫姓に出ることをいう。『新唐書』巻71下・宰相世系表1下に「楊氏出自姫姓,周宣王子尚父封為楊侯〔楊氏は姫姓自り出づ。周の宣王の子尚父封ぜられて楊侯と為る〕」、「叔向生伯石,字食我,以邑為氏,號曰楊石。黨於祁盈,盈得罪於晉,幷滅羊舌氏,叔向子孫逃于華山仙谷,遂居華陰〔叔向 伯石を生む。字は食我,邑を以て氏と為し,號して楊石と曰う。祁盈に黨し,盈は罪を晉に得,幷びに羊舌氏〔=食我〕を滅す。叔向の子孫 華山の仙谷に逃げ,遂に華陰に居す〕」とある。前漢の楊敞〔2〕と後漢の楊震〔3〕は、ともに弘農華陰を住居として、丞相の官にいたった。墓誌にいう「西漢の羽儀」「東京の紱冕」とは、この二人を指して言っている。墓誌はまた「後代從官,遂家於燕州之遼西縣,故今為縣人也〔後代 官に從い,遂に燕州の遼西縣に家す。故に今は縣人為(た)り〕」という。楊氏が幽燕〔唐代以前では幽州、戦国時代では燕国に属した地域〕の官職についたのは、楊震の末裔の楊鉉〔楊震の八世孫〕に始まり、〔五胡十六国時代の〕燕国時代では北平の郡守であった。隋の文帝楊堅はこの系統の出である〔楊鉉は楊堅の六世祖〕。楊上の系統も楊鉉に出るかもしれないが、その(曽)祖である楊明と祖である楊相は、後魏・北斉時代にともに刺史であった。父の楊暉は、隋の幷州〔いま太原〕の大都督であった。後に唐の高祖李淵は幷州に決起したので、〔墓誌に〕「唐帝遺風の国」という。かれらは正史に見えず、その後裔も唐代での官位は高くないので、隋の皇帝と同族でも遠縁なのかもしれない。残念ながら楊上善の籍貫〔本籍〕は、古い書では言及されておらず、楊上と比較することができない。


    〔1〕維基百科:弘農楊氏,是中國中古時代以弘農郡為郡望的楊姓士族。據《通志·氏族略》記載弘農楊氏或源於春秋羊舌氏後裔,是叔向之後。其始祖為西漢時人楊敞,為漢昭帝時丞相,史學家司馬遷女婿,後代楊寶是西漢末、東漢初,傳習歐陽派《尚書》的經學學者。楊寶之子楊震,人稱“關西孔子”,東漢太尉。其後裔楊秉,楊賜,楊彪皆為東漢太尉,時人稱其“四世太尉”。

    〔2〕維基百科:楊敞(?-前74年),西漢大臣,華陰人。祖先為漢朝赤泉侯楊喜。

    〔3〕維基百科:楊震(54年-124年),字伯起,隱士楊寶之子。中國東漢時期弘農華陰(今陜西省華陰縣東)人。/『後漢書』楊震列傳第44を参照。

    


2022年7月6日水曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 01

  (1)「楊上、字は善」なる者は楊上善と同一人物でありうる。唐代人の名字には、後世の人を大いに困惑させる現象がある。例えば、2文字の名は常に1字が省かれて1文字の名で呼ばれる、名と字(あざな)が混在する、子孫の名が父祖の名と同じであるなどである。2文字の名でありながら、また1文字の名であり、1文字の字(あざな)とするのも、唐代人の名字の不思議な現象のひとつだろう。たとえば、『房山石經題記彙編』の咸亨五年龐懷伯等造像記の中には、「維大唐咸亨五年五月八日龐懷伯」とあるが、同書にはまた故上柱國龐府君金剛經頌〔賛美文〕があって、そこには「公の諱は懷、字は伯」という[2]。つまり造像記の中で、この人はみずからを龐懷伯と名乗っているが、世俗的な墓誌銘に非常に似ている後人が彼の死後に書いたこの頌には、意外にも「諱は懷、字は伯」とある。楊氏が書を著わした時、「楊上善」と自署し、後人がその墓誌を撰したときに「諱は上、字は善」としたのは、これとまったく同じである。当然のことながら、古代には同姓同名のひとは非常に多く、同姓同名の別人がいても不思議ではない。この楊上が楊上善であるかどうかは、主に以下に述べられている彼の生涯の事跡が楊上善と一致しているかどうかをみなければならない。


    [2]北京图书馆金石组.房山石经题记汇编[M].北京:书目文献出版社,1987.3,4.


2022年7月5日火曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 00

楊上善の生涯に関する新たな証拠(楊上善生平考据新证)


        吉林大学古籍研究所  張固也 張世磊 著  『中医文献雑誌』2008年第5期

                                                                                

    〔〕内は訳注。長くなる場合は、番号を附して段落の後ろに置いた。

    原文の参考文献[1]~[3]は、段落末に移動した。

 

    要旨:近年発表された楊上の墓誌は、実は唐代の医家、楊上善の墓誌である。考察により、楊氏の生没年は589年~681年であり、70歳以前に隠居して学問に専念したが、後に詔を受けて入朝し、長期にわたって太子李賢の府に勤めていたことが判明した。『太素』は675年ごろに撰注された。

 

 キーワード:太素 楊上善 生涯 考証


 19世紀に日本で楊上善注『太素』の古鈔本が発見されて以来、中日両国の学者は宋・明時代の医史の著作でいわれていた、楊上善は隋代の人であるという説に疑問を呈し、唐・高宗時代の太子文学であった、とひろく認められるようになった。しかしながら今にいたるまで楊氏の他の生涯の事績についてはほとんど知られておらず、基本的に清代の人の出した結論より先にすすんでいない。最近、『唐代墓誌彙編続集』を読んで、その中に「垂拱007」という番号がついた楊上の墓誌があることに気づいたが、これは楊上善の墓誌である可能性が高い。まず墓誌の主な内容を以下に抄録する。


  大唐子洗馬楊府君及夫人宗氏墓誌銘並序

  〔原本未見のため、代用として一部に中國哲學書電子化計劃データとの異同を一部記す。なお「計劃」は難字を表現できていないようである。〕

  君諱上,字善。其先弘農華陰人,後代從官,遂家於燕州之遼西縣,故今為縣人也。若夫洪源析胤,泛稷澤之波瀾;曾構分華,肇歧山之峻嶷。赤泉疏祉,即西漢之羽儀;白瓌〔=瑰。/計劃作「環」〕貽貺,實東京之紱冕。並以詳〔計劃に「諸」字あり〕史牒,可略言焉。祖明,後魏滄州刺史;祖相,北齊朔州刺史。並褰帷布政,人知禮義之方;案部班條,俗有忠貞之節。父暉,隋幷州大都督。郊通虜鄣,地接寶符,細侯竹馬之鄉,唐帝遺風之國,戎商混雜,必佇高才。以公剖符,綽有餘裕,雨灑傳車之米,仁生別扇之前。惟公景宿摛靈,賢雲集貺,鳳毛馳譽,早映於髫辰;羊車表德,先奇乎廿歲。志尚弘遠,心識貞明,慕巢、許之為人,煙霞綴想,企尚、禽之為事,歲〔計劃作「風」〕月纏懷。年十有一,虛襟遠岫,玩王孫之芳草,對隱士之長松。於是博綜奇文,多該異說,紫臺丹篋之記,三清八會之書,莫不得自天然,非由學至。又復留情彼岸,翹首淨居,耽玩眾經,不離朝暮,天親天著之旨,睹奧義若冰銷;龍宮鹿野之文,辯妙理如河瀉。俄而翹弓遠騖,賁帛遐徵,丘壑不足自令,松桂由其褫色。遂乃天茲林躅,赴波〔計劃作「彼」〕金門。爰降絲綸,式旌嘉秩,解褐除弘文館學士。詞庭振藻,縟潘錦以飛華;名苑雕章,絢張池而動色。寮寀欽矚,是曰得人。又除沛王〔計劃作「府」〕文學,綠車動軔,朱邸開扉,必佇高明,用充良選,以公而處,僉議攸歸。累遷左威衛長史、太子文學及洗馬等,贊務兵鈐,彯纓銀牓〔計劃作「榜」〕。搖山之下,聽風樂之餘音;過水之前,奉體物之洪作。既而歲侵〔計劃作「浸」〕蒲柳,景迫崦嵫,言訪田園,或符知止。不謂三芝宜術,龜鶴之歲無期;乾月奄終,石火之悲俄及。以永隆二年八月十三日,終於里第〔計劃の句讀:不謂三芝,宜術龜鶴之歲;無期幹(まま)月,奄終石火之悲。俄及以永隆二年八月十三日終於里第〕,春秋九十有三。惟君仁義忠信,是曰平生之資;溫良恭儉,實作立身之德。學包四徹,識綜九流,題目冠於子將,風景凌於叔夜。仙鶴未托,門蟻延災,曲池忽平,大暮難曙[1]。(以下の夫人に関する記事と銘文は省略。)


    [1]周绍良,赵超. 唐代墓志汇编续集[M].上海:上海古籍出版社,2001.284.

    ★中國哲學書電子化計劃の『唐代墓志匯編續集』№垂拱007 大唐故太子洗馬楊府君及夫人宗氏墓誌銘並序によれば、省略された部分は以下のごとし。・*サは、表示のまま。おそらく難字。

    夫人南陽宗氏,隋清池縣令之女也。虔誠蘋藻,中饋之禮無虧,銳想組釧,內則之儀允備。昔年晝哭,切鳳梧之半死;今日歸泉,睹龍匣之雙掩。以永淳元年九月卅日終於長壽里第。粵以今垂拱元年八月十七日遷窆於長安縣承平鄉龍首原,禮也。傍分石柱,即為三輔之郊;近通璜渭,是曰八川之壤。佳城鬱鬱,松柏蒼蒼,丹・人素而愁雲飛,白驥鳴而斜日落。嗣子神機等,情深屺岵,痛結穹蒼,既營馬鬣之墳,思樹龍文之碣,林宗有道,伯喈無・鬼。

    其詞曰:

    分源稷澤,命氏諸楊,赤帛標祉,白環表祥。

    乃父乃祖,為龍為光,褰帷作訓,露冕垂芳。

    高情雲聳,逸韻瓊鏘,惟君誕秀,大昴垂芒。

    幼而歧嶷,長自・璋,孤標藝府,獨擅文房。

    琴台鳳集,筆抄鸞翔,娛情澗戶,朗嘯山莊。

    爰逢賁帛,乃應明*,升簪詞苑,奉笏春坊。

    謀猷獻替,令問昭彰,隙前逝馬,水上遷サ。

    池台霜落,風月淒涼,龜謀襲吉,馬鬣開場。

    雙棺是掩,二・齊揚,仙禽來吊,服馬悲傷,

    宿草將列,新松未行。百年兮已盡,萬古兮茫茫。

    


 この墓誌の撰者は不詳である。編者の注には、「西安阿房宮付近の農家が石を蔵し、張鎔がこれを録した」とある。碑石の発見年代はよく分からないが、文章の風格からすると、確かに唐代の人の言辞であり、後世の人が偽撰できるものではない。序文にはまた「今垂拱元年八月十七日、長安県承平郷龍首原に窆(はか)を遷す」とあり、この時に作られた碑文であろう。唐初の墓誌は四六駢儷体で、典故も多く用いられ、その生涯の事績を述べるのは往々にしてそれほど詳しくなく、その著述書を載せることはさらに稀である。楊上の墓誌にも形式的な美辞麗句が多く、記載された事績は簡略にすぎるきらいがある。とはいえ、楊上善の生涯の学術と完全に一致している。以下、墓誌に書かれた文章の順に沿って、10の方面から考証と解釈をおこなう。


 

2022年5月23日月曜日

成都中医薬大学中国出土医学文献与文物研究院編『天回医簡書迹留真』

 https://www.cdutcm.edu.cn/zgctyxwxywwyjy/xsyj/xmycg/content_78693

成都:巴蜀书社,2021.11  定価 100.00

以下,

「前言」(まえがき)をwww.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳してもらい,その上で固有名詞を原文に戻し,若干語調を調えた。

 2012年末、成都文物考古研究院が成都市金牛区天回鎮の前漢墓を発掘し、医学を中心とした竹簡を多数出土した。 2014年末、中国伝統医学院中医歴史文献研究所、成都文物考古研究院、成都中医薬大学、荊州文物保存センターがチームを立ち上げ、これらの竹簡を照合する作業を開始した。 この6年間で、出土したすべての竹簡について、その形状、積み重ね方、編み方、書き方、文字内容などを体系的に研究してきた。

その作業は、第一に竹簡の形態、積み方、書き方などの外見的特徴の研究であり、主に本の分割や世代の確定などの問題を扱う。第二に竹簡の内容の研究であり、文章の解釈、言葉の学術的意味合い、釈義などに焦点を当てると同時に、形式、プロフィール、書き方などの関連で整理し、基本的に明らかにしたものである これらの医学書の出典を明らかにし、その名称を決定した。 天回医書の形式、内容、命名法、文体については、「四川成都天回汉墓医简整理简报」と「四川成都天回汉墓医简的命名与学术源流考」という2つの論文が、『文物』第12号(2017)に掲載されている。 この2つの論文と異なるのは、先日の専門家検討会での議論を経て、照合チームが、当初「医马书」「法令」と名付けた竹書を、「疗马书」「律令遗文」と改名したことである。

この二千年以上前の本格的な医学書コレクションを、より多くの専門家や学者、書道愛好家にいち早く知っていただくために、このたび巴蜀书社の依頼により、天回医学書の中から、保存状態がよく、その中でも書風の異なるものを数冊選び、一冊にまとめ、読者に提供することにした。 また、竹簡の細部を最大限に表現し、古筆の筆遣いを読者に明確に伝えるため、オリジナルのカラー写真に加え、拡大した赤外線スキャンを提供した。 付属の解説書は、括弧や現代的な句読点を加えず、繰り返しの文章や文の読み方記号を残しながら、できる限り原文の形に忠実に再現している。 説明文の前の数字は、竹票をリンクさせた後の照合番号である。 なお、一部の竹簡は脱水して成都博物館に展示しているため、他の竹簡とは色調がかなり異なることを了承されたい。

天回医譜の筆法は概ね、『疗马书』の篆書、『脉书·上经』『犮理』『脉书·下经』『治六十病和剂汤法』の古隸、『逆顺五色脉藏验精神』『刺数』の八分書に近い隸書で構成されている。 出土したテキストの現状を見ると、天回医書のように、同じ墓に篆書、古隸、八分の3種の字体の竹簡があるのは比較的まれである。 天回医書における文字の変化は、秦漢時代の漢字の変化の縮図であると言え、秦漢時代の文字の変遷を研究する上で貴重な初公開情報を提供してくれている。


2022年5月20日金曜日

古代中国の名医・扁鵲と倉公の医学書「天回医簡」が今年出版へ

 https://www.msn.com/ja-jp/news/world/古代中国の名医-扁鵲と倉公の医学書-天回医簡-が今年出版へ/ar-AAXvA7t?ocid=msedgntp&cvid=4de48e3ff0ea4f2ed7bb1f504022111f


【新華社成都5月20日】中国四川省にある成都中医薬大学は19日、10年近くにわたる整理・研究を経て、前漢時代の歴史家、司馬遷(しば・せん)が著した「史記・扁鵲倉公列伝」に記載された名医・扁鵲(へんじゃく)と倉公(そうこう)による医学書「天回医簡」を今年出版すると明らかにした。

*いわゆる老官山漢墓医書。

重磅!老官山汉墓出土罕见经络漆人以及神医扁鹊失传2000多年的医典《成都老官山汉墓》(下)| 中华国宝

https://www.youtube.com/watch?v=ZdKxyz1ALhQ


2022年3月8日火曜日

漢籍リポジトリの双行注の文字の並び順について

 京都大学人文研が運営している「漢籍リポジトリ」

https://www.kanripo.org/

の双行注の一部に文字列の逆転がある問題について。

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例:

『孔子家語』の本文「馬四十駟」。王肅注「馬也/駟四」。

この注の正しい並び順を句読点をつけて表示すれば,「駟,四馬也」である。

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2022年3月7日におこなわれた「第17回京都大学人文科学研究所TOKYO漢籍SEMINAR『デジタル漢籍』」における,

http://www.kita.zinbun.kyoto-u.ac.jp/2022_kanseki_tokyo

クリスティアン・ウィッテルン先生の説明によると,以下のごとし。


【四部叢刊】の部分にこの問題がある。

検索結果で切り替えられる【四庫全書・文淵閣】では,正しい並び順になっている。

現在はデータに対応する景印(京都なので。一般には「影印」。菉竹)画像を見ることができないが,ゆくゆくは見られるようにしたい。

誤りを見つけたら,連絡してほしい。

「質問や意見などはメールでkrp2015gg (at) gmail.comまでお願いします。」


2022年2月25日金曜日

心虛?

汪文斌中国共産党外交部報道官,ウクライナ東部の独立と臺灣の関連性についての質問に答えをはぐらかす。

 https://news.ltn.com.tw/news/world/breakingnews/3838172

2022年2月24日木曜日

『近世藩立医育施設の研究』(2021年)

 本書の中に、23の藩立医育施設において教科書として使用されたベスト5が挙げられている。1位からならべると、『傷寒論』『内経』『金匱要略』『瘟疫論』『難経』であるという。

著者は、これらの書籍に以下のような驚くべき説明を加えている。
・内経:……本書は隋代に『素問』と『霊枢』に分かれた。
・難経:……『難経本義』は八一の難病に分けて夫々について五臓六腑虚実の関係で説いている。李朱医学の朱丹湲(ママ)は難経に基いて学説を発展させた。

著者(現役時代は、内科学・臨床遺伝学を専攻)は、どこからこのような理解を得たのだろうか。非常に興味深い。