2021年4月6日火曜日

覆刻仿宋本『黃帝內經素問』丹波元堅序

 京都大学附属図書館富士川文庫所蔵(ソ/75) 重広補註黄帝内経素問 24巻校訛

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00002950#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-13826%2C-233%2C34130%2C4784

国立公文書館内閣文庫 (300-0141)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000099640&ID=M2016091414190658069&TYPE=&NO=


聖經不宜有譌誤是以漢唐有

石經之設所以示學者爲楷範

焉在吾醫經一字之差動關生

命則最不宜有譌誤倘使轉輾

舛錯失眞彌甚則其誣往哲陷

來學貽害黎庶者果爲何如也

  一ウラ

醫官久志本子寶篤行好學君

子也平生感奕世寵祿之渥常

施良藥以拯窮氓又嘅醫經絶

少善本以爲素問之於吾道猶

典謩訓誥焉幸有明代覆刻宋

槧在殆係林億等校正之眞而

  二オモテ

其本凡數通時或有轉譌今宜

擇原刊最佳者翻雕以𠊳學者

庶足以報渥恩之涓埃遂命精

工附之櫻版功既竣屬元堅以

序葢醫道之陵夷也尚矣寛政

  二ウラ

官始建庠校教導子弟自時厥

後人才矞興駸駸乎無愧于古

但醫經往往行俗刻罕有佳本

學者歉焉今子寶乃有此盛擧

其所以示學者爲楷範將與漢

唐石經比軌況於醫經之關生

  三オモテ

命而爲濟衆之鴻益則子寶今

日之功其豈在鄭覃周墀輩下

也耶於是乎書

安政二年歲在旃蒙單閼涂月

甲辰江戸侍醫尚藥兼醫學教

諭法印丹波元堅謹撰


  【訓み下し】

聖經 宜しく譌誤有るべからず。是(ここ)を以て漢唐に石經の設け有り。學ぶ者に示して楷範と爲す所以(ゆえん)なり。吾が醫經に在っては、一字の差、動(ややもす)れば生命に關わる。則ち最も宜しく譌誤有るべからず。倘(も)し轉輾舛錯して、眞を失うこと彌々(いよいよ)甚だしきときは、則ち其れ往哲を誣(あざ)むき來學を陷らしめ、害を黎庶に貽(のこ)す者(こと)、果して何如(いかに)爲(せ)んや。

  一ウラ

醫官久志本子寶、篤行好學の君子なり。平生 奕世の寵祿の渥(あつ)きを感じ、常に良藥を施して、以て窮氓を拯(すく)う。又た醫經の絶えて善本少なきを嘅(なげ)き、以爲(おもえ)らく素問の吾が道に於いては、猶お典謩訓誥なり。幸いに明代の覆刻宋槧在る有り。殆ど林億等校正の眞に係る。而して

  二オモテ

其の本(ほん)凡そ數通り、時に或るいは轉譌有り。今ま宜しく原刊の最も佳き者を擇び、翻雕して以て學ぶ者に便(よろ)しくす。庶(こいねが)わくは以て渥き恩に報ゆるの涓埃に足らんことを。遂に精工に命じて、之を櫻の版に附す。功既に竣(お)わる。元堅に屬するに序を以てす。蓋し醫道の陵夷するや尚(ひさ)し。寛政の初め

  二ウラ

官始めて庠校を建て、子弟を教導す。時(これ)自(よ)り厥(そ)の後、人才矞(あふ)れ興り、駸駸乎として古えに愧づること無し。但だ醫經は往往にして俗刻行なわれ、佳本有ること罕(まれ)なり。學ぶ者歉(あきた)らず。今ま子寶乃ち此の盛舉有り。其の學ぶ者に示して楷範と爲す所以なり。將に漢唐の石經と比べ軌(よ)らんとす。況んや醫經の生命に關わるに於いてをや。

  三オモテ

而して衆を濟うの鴻益を爲すときは、則ち子寶が今日の功、其れ豈に鄭覃・周墀が輩の下に在るならんや。是(ここ)に於いてか書す。安政二年、歲は旃蒙單閼に在り、涂月甲辰、江戸侍醫尚藥兼醫學教諭法印 丹波元堅謹んで撰す



  【注釋】

 ○聖經:聖賢所著的經典。指儒家奉為典範的著作。 ○譌誤:錯誤。多指文字、記載方面。/譌:「訛」の異体字。 ○是以:因此。所以,表示因果的連詞。 ○漢:朝代名。(西元前206~220)由漢高祖劉邦滅秦,並打敗項羽所創立。至漢獻帝建安二十五年,被曹丕篡位而亡,共歷時四百年之久。因其間曾被王莽篡奪,後劉秀又將王莽消滅,重建漢室,故史稱漢光武帝劉秀以前為「前漢」,以後為「後漢」。 ○唐:朝代名。(西元618~906)李淵代隋,國號唐,二十帝,二百八十九年。唐朝建都長安,與漢朝並稱為中國歷史上最富強的盛世。當時文化優越,版圖遼闊,聲威遠播,對鄰近諸國,有深遠的影響。 ○石經:石刻的經書。始於漢平帝元始元年(西元1),此後歷代都有石經,如熹平石經、正始石經、開成石經等。今可考見其文字者,以熹平石經為最早。/刻在石上的儒家經典。漢平帝元始元年王莽命甄豐摹古文《易》、《書》、《詩》、《左傳》於石,此為石經之始。漢代以後其文字至今尚可考見者,有:(1)漢靈帝熹平四年(公元175年)蔡邕用隸書寫成的“熹平石經”,(2)三國魏齊王(曹芳)正始(公元240-248年)中用古文、篆、隸三體刻石的“正始石經”,亦稱“三體石經”。(3)唐文宗開成二年(公元837年)用楷書刻石的“唐開成石經”。參閱清顧炎武《石經考》、清萬斯同《石經考》、近人張國淦《歷代石經考》。 ○設:建立、制訂。 ○所以:原故、理由。 ○學者:求學的人。做學問的人。 ○楷範:典範, 模範。 ○焉:語氣詞,置句末:(1)表示肯定。相當於「也」、「矣」。 ○醫經:中醫學理論的經典著作。有關中醫學術方面的著作。 ○動:副詞。每每、往往。動不動,常常。しばしば。 ○關:牽涉、連繫。 ○倘使:假如;如果。 ○轉輾:循環反覆;反反覆覆。經過許多人的手或經過許多地方。 ○舛錯:差錯,不正確。錯誤。 ○失眞:與真相不合。失去本意或本來面目。 ○彌:更加。 ○誣:陷害、毀謗。欺騙、矇騙。 ○往哲:先哲;前賢。 ○陷:設計害人。 ○來學:後來的學者。後世的學者。 ○貽害:遺留禍害。使受損害。 ○黎庶:黎民。百姓、民眾。 ○果:確實、的確。 ○何如:如何、怎麼樣。 

  一ウラ

○久志本子寶:久志本(度会)常珍(つねよし)。久志本常孝『神宮医方史』を参照。 ○篤行:行為淳厚, 純正踏實。《史記‧樗里子甘茂列傳論》:「雖非篤行之君子,然亦戰國之策士也」。確實履行。切實履行;專心實行。《禮記.儒行》:「篤行而不倦,幽居而不淫」。 ○好學:喜歡學習。《論語.公冶長》:「敏而好學,不恥下問,是以謂之文也。」【篤志好學】專一心志,勤於學問。 ○君子:泛指才德出眾的人。 ○平生:平素;往常。 ○奕世:累代。代代。/奕:積累的。 〇寵祿:榮寵與祿位。給予寵幸和富貴。 ○渥:深重、濃厚。  ○拯:援救、救助。 〇窮氓:窮民。貧窮的人。指鰥、寡、孤、獨等無依無靠的人。泛指貧苦百姓。/氓:古代稱庶民為「氓」。《詩經.衛風.氓》:「氓之蚩蚩,抱布貿絲。」漢.鄭玄.箋:「氓,民也。」 ○嘅:古同「慨」,嘆息。 ○絶少:極少。 ○善本:珍貴優異的古代圖書刻本或寫本。/版本學稱最理想的本子。一般包括:一、時代最早或較早的本子。二、精印本。三、精鈔本。四、手稿、寫卷。五、名家精校的本子。六、海內外孤本。 ○素問:書名。唐王冰輯《黃帝內經素問》,再增補〈天元紀大論〉,重新編次、作注,二十四卷,為醫家必讀的一部書。 ○典謩訓誥:《尚書》中《堯典》、《大禹謨》、《湯誥》、《伊訓》等篇的並稱。/書經中的〈堯典〉、〈大禹謨〉、〈伊訓〉、〈湯誥〉等,都是古聖賢相誥誡的言論。《書序》:「典謨訓誥誓命之文,凡百篇」。/謩:「謨」の異体字。  ○覆刻:書物などの以前に出版したものを新しく版を作り直し、もとのとおりに刊行すること。 ○宋槧:宋版。/槧:古時記事寫字用的木板。古書的版本。 ○林億:北宋醫學家,官階五品,精醫術。任朝散大夫、光祿卿直秘閣。林億為宋仁宗朝樞密使高若訥之次婿;他曾有詩作保存於世。北宋嘉祐二年(1057年)政府設立校正醫書局,與掌禹錫、蘇頌等校定《嘉祐補註神農本草》二十卷。又於神宗熙寧年間(1068-1077年)與高保衡、孫兆等共同完成《素問》、《靈樞》、《難經》、《傷寒論》、《金匱要略》、《脈經》、《諸病源候論》、《千金要方》、《千金翼方》、《外臺秘要》等唐以前醫書校訂刊印,為保存古代醫學文獻和促進醫藥傳播作出貢獻。其治學嚴謹,如校《素問》,採數十家之長,端本尋支,溯流清源,改錯六千余字,增注兩千餘條。

  二オモテ

○翻雕:翻刻, 翻印。 ○𠊳:「便」の異体字。適宜、合宜。有利於。 ○庶:表示希望發生或出現某事,進行推測;但願,或許。相近、差不多。 ○足以:足夠作某件事。完全可以;夠得上。 ○渥恩:深厚的恩惠。深厚的恩澤。 ○涓埃:細流與微塵。細流輕塵。比喻微末、微小。 ○精:品質優良。佳、最好。 ○工:有專門技術或從事勞動生產的人。 ○櫻:ヤマザクラ。 ○版:木片。板。 ○功:事情、工作。成就、事業。 ○竣:完畢。 ○屬:託付。同「囑」。 ○元堅:小曽戸洋『日本漢方典籍辞典』:多紀元堅(たきもとかた)。(1795~1857)元堅の字は亦柔(えきじゅう)、号は茝庭(さいてい)、三松(さんしょう)。幼名は鋼之進、のち安叔(あんしゅく)。元簡(もとやす)の第5子で、元簡の家督は兄元胤(もとつぐ)が継ぎ、元堅は別に一家を興した。天保7(1836)年奥医師、法眼。同11年法印。弘化2(1845)年将軍家慶(いえよし)の御匙(おさじ)(侍医)。父の考証学の学風を継いで善本(ぜんぽん)医籍の収集、校訂、復刻に務め、渋江抽斎(しぶえちゅうさい)、森立之(もりたつゆき)、小島宝素(こじまほうそ)らの考証医学者を育てた。 ○葢:「蓋」の異体字。 ○陵夷:漸趨於衰微。由盛到衰。衰頹,衰落。 ○尚:久遠。古遠。 ○寛政:1789年1月25日~。 

  二ウラ

 ○官:官府(政府機關) [government]。 ○庠校:古代學校。/庠:古代的學校名稱。《孟子.滕文公上》:「夏曰校,殷曰序,周曰庠,學則三代共之,皆所以明人倫也」。/昌平黌(昌平坂学問所):徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、およそ100年を経た寛政9年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました(斯文会ホームページ)。/『国史大辞典』:江戸幕府の教育施設。正式には学問所。……幕政上、旗本・御家人の子弟を教育する直轄の施設となったのは、寛政二年(1790)より準備され、寛政九年十二月からである。 ○教導:訓誨指導。教育指導。 ○子弟:後生晚輩。泛指年輕後輩。 ○自時厥後:皇甫謐〈三都賦序〉:「自時厥後,綴文之士,不率典言。」『書經』無逸:「自時厥後,立王生則逸」。 ○矞:溢出。 ○駸駸:形容事物日趨進步強大。漸進貌。盛貌。 ○俗刻:坊刻(坊間所刻)。官刻(國家機構による刊行)の反対。 ○佳:『說文解字』「善也」。 ○歉:不滿足。 ○盛擧:偉大的舉動。盛大的活動;美事。/擧:「舉」「挙」の異体字。 ○其所以示學者爲楷範將與漢唐石經 ○比:依照、仿照。 ○軌:遵照、依循。

  三オモテ

○濟衆:救助眾人。《論語‧雍也》:「如有博施於民而能濟眾,何如?可謂仁乎?」 ○鴻:大、盛。通「洪」、「宏」、「弘」。 ○鄭覃:(?-842年),滎陽開封(今河南開封)人,唐朝大臣,封滎陽公。唐文宗年間任宰相,被視為牛李黨爭中李黨的領袖之一。帝以名儒相待,讓他領祭酒銜。請置博士,刊石經於太學。 ○周墀:(793~851年),字德升,本汝南人,祖輩遷居黃岡(今屬湖北)。唐朝中後期宰相、歷史學家、書畫家。周墀工於小篆,見稱一時,字畫頗佳,聯合崔球、張次宗、孔溫業等校讎經籍刊印《開成石經》。萬斯同『石經考』卷下・唐石經:「文宗時、太學勒石經、而鄭覃・周墀等校定九經」。 ○於是乎:表順序承接的連詞。於是、因此。 ○安政二年:(乙卯) ○歲:歲星。木星。 ○旃蒙:十干中乙的別稱。 ○單閼:歲陰名。 卯年的別稱。 ○涂月:陰曆十二月的別稱。11月24日より1856年なので,安政二年(1856)十二月。 ○甲辰:十五日(大寒)。西暦では,1856年1月22日。 

関連資料:

陳名婷、蘇奕彰 「故宮典藏之安政本《素問》源流初探」

https://www.nricm.edu.tw/var/file/0/1000/attach/77/pta_2287_2424345_83473.pdf





2021年2月11日木曜日

張樹剣『中国鍼灸思想史論』から 鍼灸の伝統:歴史と比較の視角   3結論

  中医鍼灸は教科書では一種の形式主義の風格をより多く体現している。ほとんどあらゆる中医がみな中国の伝統鍼灸は『内経』を尊崇することだと公言しているが、『内経』の鍼灸と彼らの思い抱いているものと習ったものが大いに異なるものであることを認識している人は少ない。初期の鍼灸は簡単で実用的なものであり、外科治療のようなものであった。もし本当に『内経』の伝統を継承するのであれば、鍼灸は現代外科の一分野として発展したであろう。

 現在の鍼灸の伝統は、実際上は、宋元時代に構築されたものである。それは医学理論と儒家思想を結合して創造されたひとつの美的理論の枠組みであり、この枠組みは明清時代も引き継がれた。中華民国時代になり、鍼灸研究者は伝統の革新に取り組みはじめた。彼らの著作には、彼らが影響を受けた西洋医学の理論、とりわけ日本の鍼灸書の影響が反映されている。鍼灸はかなりはやくから科学の道をあゆむ機会があったが、20世紀50年代の後期に、政策の影響によって、ふたたび宋元時代の古い道に方向を変えさせられた。それにもかかわらず、現在の鍼灸は実験室であれ臨床であれ、いずれも古い伝統をたえず突き破っている。

 鍼灸の伝統とは、一度できあがってしまったら変わりようのない概念ではなく、社会文化が変われば、たえず改めて考える必要があるものである。つぎのように言ってもよい。あらゆるいわゆる伝統は特定の時代と地域に基づくものであり、その伝統はみな文化の一部である。このような傾向は近代が始まって以来、ますます顕著である。一定程度、鍼灸は国家あるいは組織の発言力をあらわしている。「中医鍼灸」「西洋鍼灸」というように、地域の流派のラベルが貼られている。他のフランス伝統鍼灸に類似した流派もこの「鍼灸戦争」①の分け前を手に入れようとしている。西洋の鍼灸研究者は、中医伝統鍼灸から新しい科学鍼灸あるいは医学鍼灸を分離しようと試みている。彼らからみると、現行の「中医鍼灸」は古代の鍼灸とくらべて全く変化がなく、おくれた非科学的なものである。実際上、この観点そのものは、型にはまったもので、確固たる根拠があるものとはいいがたい。中医鍼灸も現代医学の影響を受けていて、正確な診断と詳細な検査は、西洋鍼灸独自の特徴ではけっしてない。鍼灸は発展過程にある治療と知識体系であると、中国の鍼灸医と学者は明らかにみてはいるが、中には「伝統」鍼灸のヴェールを脱ぎたがらない人もいる。

原注:①「鍼灸戦争」は、米国の学者Bridie Andrews(呉章)が2015年6月5日に復旦大学でおこなった学術講演において提出した概念である。彼女の考えでは、現在の鍼灸が国家の発言力をあらわしていて、その中では中国・日本・韓国などが参与している。

 今まで不変の伝統など存在したことはない。中医の伝統は、世界のその時その場では適用されないし、医学の歴史もひとつの簡単な進歩の過程ではない。ひとつの治療理論がその歴史的な時代にふさわしくない時、それは社会観念のしもべとなる。それぞれの時期における鍼灸理論と実践は、たえず補充され、修正され、変化したが、当然すべての変化が積極的であったわけではけっしてない。鍼刺理論は社会的要素の影響下にあり、単純な技術の問題でなかっただけでなく、技術のルールにだけによっても解釈できなかった。

 最後に、未来の鍼灸はどうなっているだろうか?世界の発展過程において、科学は主流である。したがって医学鍼灸は進歩するであろう。大多数の人々の角度からみれば、中医鍼灸は依然としてもっとも権威ある形式であり、さすがに中国は鍼灸の故郷である。西洋では自然主義がますます盛行し、伝統鍼灸の保守派も存続可能であろう。しかしすべては社会文化そのものによって決定される。想像されることは、古い鍼灸伝統は絶えざる変化の中にあり、新たな伝統もたえず生み出されるだろう、ということである。


2021年1月24日日曜日

中国の論文 摘要だけ③

 『黄帝内経』任督二脈循行解析

王燕平1 张维1,2 李宏彦2 1

(1.北京中医大学灸推拿学院 2.中国中医科学院灸研究所)

摘要:『黄帝内経』原文の分析と、透明な魚、ラット、ヒトの経絡のトレース研究の結果をもとに、任脈と督脉の循環を再構築した。 任脈の起点である「胞中」と「中極之下」は同じ場所にあり、その循行路線は腹深枝、背深枝、腹表枝の三つに分かれている。督脉の起点は恥骨上の曲骨穴にあり、その循行は臀脊上枝、頭背下枝、腹面上枝、頭背中枝の四つに分かれている。任脈と督脉は体幹・頭部の前・後部を走行するが、一つは深く、一つは浅く、内外二つの輪を形成しており、前部が任脈、後部が督脉というよく知られた前後分布パターンではない。

キイワード:黄帝内経、任脈、督脉、経脈循行

『中国鍼灸』 2021

 https://chn.oversea.cnki.net/KCMS/detail/detail.aspx?dbcode=CAPJ&dbname=CAPJLAST&filename=ZGZE20201222000&v=XRsQJ45w%25mmd2FRVxNVdWRLTLTMCTUGitWa%25mmd2FQ0GqkRJXRVbBeBBk8ry3NnR4eFLodFeWq

2021年1月23日土曜日

中国の論文 摘要だけ②

 

『黄帝内経』「規矩權衡」の「方圓」と「昇降」の探析

李吉武 唐爱华  王振 李双蕾

(广西中医大学第一附属医院)

摘要:「文化の自信」は、「四つの自信」の中でもより基礎的で、広範で、深厚な自信である。それは、伝統的で優秀な文化を源としており、中国医学は中華文明の宝庫を開く鍵である。聖賢先哲は「天圓地方」思想を以て天地自然を認識した。それは、地は静によって方となり、天は動によって圓となり、動静昇降に規律がある、というものであった。中国古代の天地観、道德観、倫理観、医学観等は哲学的「方圓」観念を体現している。中医哲学思想は一元二氣の「中和」の之道であり、天地陰陽を基準として、「規矩權衡」は変通の道であり、常を知って変に達する。本文は語義学、文化学、そして中医学の角度から『黄帝内経』の「規矩權衡」と「方圓」「昇降」について解説と探索を進めた。中医哲学思想の「規矩權衡」の思弁は、中医学の「天人合一」「天人相」理論の要点であり、中医の生理病理、防治養生、治則治法を教えてくれる。

キイワード:權衡、規矩衡、方圓、昇降、黄帝内経

『医学争鳴』 202006

 https://chn.oversea.cnki.net/KCMS/detail/detail.aspx?dbcode=CJFD&dbname=CJFDAUTO&filename=DSJY202006012&v=T0HylJ%25mmd2F2TMJXK6%25mmd2BpN2BmlTMLBYjHRI1mBM%25mmd2ByXVOqAPNn%25mmd2FqIPC%25mmd2BiPjwnFEBDPk65N

四个自信」は、道路自信、理論自信、制度自信、文化自信の四つで構成される、CCPによるスローガン。


「奇穴」 張樹剣『中国鍼灸思想史論』(社会科学文献出版社、2020年6月)から 

  「穴有奇正策」は、明代の鍼灸家、楊継洲によるよく知られた鍼灸医論であり、そこには奇穴の証候と治療が一部述べられている。同時に、楊氏は『鍼灸大成』のなかに「経外奇穴」の部門をもうけ、経外奇穴35個を掲載している。現在、一般には奇穴と経穴、阿是穴をならべて、十四経に属さずに具体的な位置と名称をもつ穴を経外奇穴という。


  (一)腧穴に元々奇穴と正穴の区別はない

 『内経』には、腧穴をあらわす用語として、節之交・気府・気穴・骨空など多くの種類がある。これらの名称は文字面からみて、へこんでいる・気を蔵するところなど、形やはたらきの意味を持っている。そのうえ、『内経』には鍼を刺す位置を明記するものの明確に命名されていないものが多数ある。名称があったとしても、多くは局部解剖の特徴による命名であり、欠盆・舌下両脈・肩解・髀枢・十指間など、素朴で直感的なものである。それらのいくつかは、そのまま踏襲されている。したがって、『内経』にある腧穴の概念は、具体的な体表の解剖的部位という一般的な意味からはずれたものではない。『素問』気府論には、ある脈は「脈気の発する所」という記載があり、腧穴帰経のひな形と考えることはできるが、全体からいえば、『内経』中の腧穴には帰経はない。兪穴が経に帰属しないということは、いわゆる経穴はない、ということであり、これと対応するいわゆる奇穴もない、ということである。ある観点から、『霊枢』刺節真邪にある「徹衣者、尽刺諸陽之奇輸也」を奇穴の出典とする考えもあるが、明らかに不適当である。

 『黄帝明堂経』『鍼灸甲乙経』は、四肢の部位にある腧穴の帰経からはじめた。この時、兪穴の名称と位置は固定的になりつつあった。宋代の王惟一が編修した『銅人腧穴鍼灸図経』は、この二つの書物を基礎に5穴を増補し354穴として、すべて十二経脈と任督二脈に帰属させた。それに影響されて、後世ではひきつづき踏襲している。そのため、いわゆる腧穴帰経とは、主に『黄帝明堂経』の腧穴帰経を指している。『黄帝明堂経』以外の、宋以前の諸家の著作、たとえば『肘後備急方』『備急千金要方』『千金翼方』に見える腧穴で、『黄帝明堂経』に収録されていない腧穴が、奇穴である。それらの中で、『備急千金要方』には187個の奇穴が掲載され、各種の病証に対する治療篇に散らばって見られる。南宋の王執中は『鍼灸資生経』を編纂した際、民間で用いられていた多くの有効な腧穴を補充し、各篇にそれぞれ入れた。その後、明代の董宿が『奇効良方』を編集し、はじめて専門の論として独立させ、奇穴26個を収載した。明の楊継洲は『鍼灸大成』において、『奇効良方』を基礎として、収集した奇穴を増やし、35穴を掲載し、「経外奇穴」と命名した。これから「奇穴」あるいは「経外奇穴」が腧穴分類の一つとなった。

 これによって、いわゆる奇穴とは、主に『黄帝明堂経』に収録されない腧穴を指す。『黄帝明堂経』は最も重要な腧穴経典とされ、そこに収載されている腧穴が後世の経穴の主体となった。しかし、『黄帝明堂経』一書だけでは、多くの穴を包含するにはほど遠い。経に帰属させた腧穴が経穴となり、経に帰属させられなかった腧穴が奇穴と呼ばれるようになった。ゆえに、腧穴には元々奇も正もないのである。時代を異にする医学家が帰納して次第に奇穴と経穴に分けるようになった。経穴が経脈に帰属するようになり強い系統性ができて、伝承しやすくなったので、腧穴体系の正統が次第に形成された。


  (二)帰経は腧穴の本質に対する理解に影響をおよぼした

 奇穴と経穴は、ともに古代人による身体体表の特定部位についての認識である。それが生じた過程は、長い時間を経ていて、腧穴の研究は、奇穴を避けることはできないし、経穴を経に帰属させるという人為的な腧穴分類がおよぼした腧穴概念に対する影響を軽視することはなおさらできない。したがって、鍼を用いて疾病を治療するのに、元々いわゆる正穴・奇穴はなく、経に帰属させた経穴に固執し、とりわけ天〔人相関の思想〕にのっとって定められた腧穴365という数に執着することは、臨床においては、ともに柔軟性に欠ける。腧穴帰経の過程と経穴の数が固定化に向かったことは、腧穴の本質を理解する上で障害である、ともいえる。

  楊継洲が『鍼灸大成』穴有奇正策において、次のように言った。「夫有針灸,則必有會數法之全,有數法則必有所定之穴,而奇穴者,則又旁通於正穴之外,以隨時療症者也〔夫れ針灸有れば,則ち必ず數法を會するの全有り。數法有れば則ち必ず所定の穴有り。而して奇穴なる者は,則ち又た正穴の外に旁通し,以て時に隨って症を療する者なり/鍼灸があれば、数と法が会合する全体がある〔前文に「法なる者は鍼灸の立つる所の規、而して数なる者は其の法を紀す所以」とある〕。数と法があれば、かならず所定の穴がある。しかし奇穴というものは、正穴以外に広く通じており、その時に応じて治療できるものである。〕」。また次のようにも言った。「此皆迹也,而非所以論於數法奇正之外也。聖人之情,因數以示,而非數之所能拘,因法以顯,而非法之所能泥,用定穴以垂教,而非奇正之所能盡,神而明之,亦存乎其人焉耳。……治法因乎人,不因乎數,變通隨乎症,不隨乎法,定穴主乎心,不主乎奇正之陳迹〔此れ皆な迹なり。而して數法奇正を論ずる所以の外に非ざるなり。聖人の情,數に因って以て示すも,而るに數の能く拘る所に非ず。法に因って以て顯わすも,而るに法の能く泥する所に非ず。定めし穴を用いて以て教えを垂るとも,而るに奇正の能く盡(つ)くす所に非ず。神にして之を明にするは,亦た其の人に存するのみ。……治法は人に因って,數に因らず。變通は症に隨って,法に隨わず。穴を定むるは心を主として,奇正の陳迹を主とせず/これらはみな研究の事跡である。しかしこれは数・法・奇・正を論じた内容の外にあるものではない。聖人の情理は、数の理論によって示されたとはいえ、数の理論で拘束することはできない。法則によって明らかにされたとはいえ、法則に拘泥することはできない。固定した穴を使用して人々に教授するとしても、奇穴と正穴だけですべてを尽くすことはできない。これらに通暁できるかどうかは、みなその人(治療者)にかかっている。……治療法は人(治療者の判断)によるのであって、数の理論にはよらない。情況に応じて柔軟に対処するのであって、一般原則にはしたがわない。治療穴の決定は治療者の認識に基づくのであって、奇穴・正穴という過去の事跡を墨守しない〕」。この言葉は正しい。

2021年1月15日金曜日

中国の論文 摘要だけ①

  中国の学術雑誌に掲載されている論文のうち、我々に関係ありそうな論文を紹介するようなことができないかと、先日某所でお話ししたところ、左合先生に励まされましたので、少しづつやってみようかと思います。

 内経誌への投稿を考えていましたが、ここならハードルが低かろうということで、練習がてら談話室へ少しづつ投稿してみようと思います。

 論文は、中華医史雑誌以外も、ということで、

中国知网 (cnki.net)

 ここで、素問、霊枢、黄帝内経というワードで検索して、関係ありそうな論文をピックアップし、摘要を和訳してみます。


「十二皮部」呼称の探求

李玉仙1 李志道2 2

1.天津中医大学中医学院 2.天津中医大学灸推拿学院

摘要:「十二皮部」は、現在経絡系統の一つとして知られ、また体表の最外層の組織構造―皮膚を形成している。李志道教授は、「十二皮部」という呼称は妥当ではないとしている。「皮部」という単語の語法構造の分析を通じて、それが「皮膚」の含義を正確に表現することはできないと明らかにする。『黄帝内経』の検索を通じ、生理・病理・治療を叙述する際、「皮」の用例が131回、「皮膚」が92回、「皮毛」が30回、「皮部」は全書で3回のみであり、すべて部位を指している。そのため、「十二皮部」という呼称は妥当ではなく、「十二皮膚」あるいは「十二皮」の方が妥当である。皮膚は、外邪への抵抗、病の伝変の防止、診断、疾病の治療に重要な作用を持っている。

キイワード:皮部、皮膚、皮、皮毛、専家経験

『医学争』、202006


摘要:"十二皮部"是目前公经络统组成之一,体表最外层组织结——皮肤。李志道教授认为"十二皮部"称呼并不妥当。通分析皮部一,表明其不能准确表达"皮肤"的含。通过检索《黄帝内,发现在叙述生理病理治疗时使用""131;使用"皮肤"92;使用"皮毛"30;"皮部"书仅3,均指部位。故"十二皮部"个称并不妥当,称之"十二皮肤""十二皮"。皮肤于抵御外邪,防病传变,断、治疾病都有着重要作用。


もし版権上問題あるようなら、すぐに削除いたします。

2020年12月28日月曜日

拙訳 黄龍祥 『鍼経』『素問』の編撰と所伝の謎を解く 04

 正しい翻訳は『季刊内経』No.220(2020年秋号)掲載

 左合昌美先生訳 『針経』『素問』編撰と流伝の謎を解く

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6 討論

 漢以前に各家の諸説が次から次へとあらわれた医学思想と向き合って、これをどのように裁断するか?どのようにつなぎ合わせたら、統一的な理論体系を構築できるか?『鍼経』の序論である九針十二原篇を見て分かるように、著者の目標は明確である。「必有明法、以起度数、法式検押、乃後可伝焉〔必ず明法有りて、以て度数・法式検押を起こし、乃ち後に焉(これ)を伝う可し〕」〔『霊枢』逆順肥痩(38)〕という鍼経を創作することである。古経を煉瓦として新しい建物を建てるのであって、古医籍を整理するのではない。明らかに劉向と李柱国が漢以前の諸医家の単独文献を集めて校正し、各家の総集定本を作るという作業とは性質がまったく異なる。

『鍼経』の構想において、最初の篇では黄帝が道を問うことから始まり、まとめの篇では黄帝が道を伝え広めることに終わる。前後呼応して、密接につながっている。作者が本書全体で構想した独創的な大局観と叙述の妙を十分に展開している。

『鍼経』の全体的な構想が論理的に綿密であることは、伝世本の経脈篇(10)の編纂から一斑を窺い知ることができる。作者は、邪気臓腑病形・営気・五十営・経水・脈度・禁服・経別・営衛生会・逆順肥痩という諸篇に幾重にも重なった伏線を張った上で、最後に経脈篇で、十二経脈が「環の端無きが如く」流注する環状方式の論理構築を完成させた。これに似た幾重にも伏線を張り、密接に連なった篇章の構想事例は、『鍼経』の至る所に見られる。こういう前後が関連する構想は一人の手によってしかなしえない。『鍼経』には、統一された全体構想、統一された完全な方針の枠組み、統一された表現スタイルと習慣があり、演繹的方法を通じて一つ一つ一歩一歩シミュレーションしながら、完備した理論体系を作り出している。学界が「一時の文、一人の作」と見なす「論文集」の性質では全くない。

 内外篇の構想全般から見て、内篇の構想は理論の革新を体現することにあり、外篇の構想は文献の整理を主に体現している。『鍼経』の編集は精密で、『素問』の編集はおおまかである。この両者の性質が相違するのは、それらの位置付けが異なっていたためであり、それを決定づけたのは構想と加工段階において取り扱い方が異なっていたからである。

 編纂方式において、内篇は古い文献を取り入れる際には合編方式を多く採用して改編した。異なる古いテキストの間につなぎの段落を追加し、さらにしばしばテキストの冒頭に「帽子をかぶせ」たり、篇の末尾に「靴をはかせ」たりする〔取って付けたような、不自然で場違いの〕作者が創作した特徴的な標識を残して、完全に統一された新しいテキストを作り出した。それと比較すれば、王冰が改編する以前の外篇『素問』では、このようなものはあまりない。このことから、内篇と外篇では性質が異なるだけでなく、編纂の方式も大きく異なっていて、内篇の編纂の方式は「撰」であり、外篇の方式は「編」であることが分かる。このことから推定すると、もし『漢書』藝文志に著録された七家の医籍が再び日の目を見たり、より早い時期に単独で伝えられた医書が発掘されるという考古学的発見があったとしたら、『素問』と同じかそれに非常に近いテキストには出会えるかも知れないが、『鍼経』に関しては、同じかあるいは非常に近いテキストを見つけることは難しいと考えられる。

    〔『漢書』藝文志:黄帝内経十八巻。外経三十(九)〔七〕巻。扁鵲内経九巻。外経十二巻。白氏内経三十八巻。外経三十六巻。旁篇二十五巻。右医経七家、二百一十六巻。〕

『鍼経』『素問』の主人公が「黄帝」であることは、既知の事柄である。そうであれば素材の選択において、漢代の劉向父子が校定した『黄帝内経』『黄帝外経』が材料の第一選択肢であったことは間違いない。また筆者の調査から、扁鵲医籍の多くの文も『鍼経』『素問』に見られることが分かったので[16]、劉向父子が校定した『扁鵲内経』『扁鵲外経』も素材の一つであることが分かる。ただ引用する時には元の文献の主人公が「扁鵲」から「黄帝」に変えられた。材料の取捨選択においては、著者が新たに定めた理論の枠組みに適合する扁鵲医学の内容の多くはそのまま採用されて、それぞれやや相違する改編方式で引用されている。しかし、理論の枠組みに矛盾する文章は捨てられて使われることはなかった。後世の医籍にははっきりと白氏の医籍に関わる文であると照合できる標識となるものは発見されていないが、推論は可能である。劉向が当時整理した『白氏内経』『白氏外経』『旁篇』も、『鍼経』と『素問』を編纂した素材の一つであり、取捨選択の原則も扁鵲医籍を引用したときと同じであり、適合すればこれを用い、適合せざればこれを捨てた。内篇外篇の位置付けが異なっていれば、材料選びも当然異なる。つまり、内篇『鍼経』では当然『黄帝内経』『扁鵲内経』『白氏内経』の三家の内経を基本的な素材とし、外篇『素問』では三家の外経および白氏の旁篇を基本的な素材としている。

 内篇『鍼経』は古人や前人の文献を煉瓦として新しい建物を建てたもので、古い材料が目的に合わなければ改造し、足りないときは新たに製造したものである。外篇は元の文献の旧態をより多く保持している。内篇で改編に使われた素材ですら、元の文献の大部分が外篇に保存されている。たとえ残文断簡〔不完全な文章〕であっても、内篇と関連するのであれば外篇にも保存され、安易には捨てられていない。

『鍼経』と『素問』は一つの書であるとはいえ、編集された順序は、内篇が先で外篇が後である。これについては、九針十二原篇がはっきり述べている。「必明為之法令、終而不滅、久而不絶、易用難忘。為之経紀、異其[篇]章、別其表裏。為之終始令各有形、先立針鍼経〔必ず明らかに之を法令と為し、終わりて滅びず、久しくして絶えず、用い易く忘れ難くす。之を経紀と為し、其の[篇]章を異にし、其の表裏を別つ。之を終始と為して各々をして形有らしめ、先に鍼経を立つ〕」。

 伝世本『霊枢』『素問』が編集された時間座標を調べても、非常に有力な証拠を見つけることができる。『鍼経』の経文を解釈し論述する数多くの篇章が『素問』に見えることはその証拠となるが、それ以外にさらに多くのさらに有力な証拠がある。その1、『素問』には八正神明論と離合真邪論の二篇があり、『鍼経』の結びとなる官能篇にある長い経文を専門に注解している。このことだけでも外篇『素問』が内篇『鍼経』より後に成書したと判定するのに十分である。その2、篇目の構想をみると、内篇に「玉版」があり、外篇にはこの篇を論述した「玉版論要」「玉機真蔵」がある。内篇に「経脈」があり、外篇には「経脈別論」がある。

 最後にすこし説明を加える。確定的な証拠により、以下のことが明らかになった。今日、目にするところの馬王堆・張家山・老官山から出土した漢代および漢以前の古医籍を、『鍼経』の作者または劉向と李柱国は、書籍を校定した時に見ている。例えば、経脈文献である馬王堆の『足臂十一脈灸経』と『陰陽十一脈灸経』、そして老官山から最近出土した経脈文献の特徴的な文は、「経脈」「経別」「営気」「経筋」にもその痕跡がある。出土文献の文が完全に『鍼経』に現われていないのは、まさにこの書が理論革新の作品であって、文献整理の書ではないからである。これに対して、さらに遅れて成書した『黄帝明堂経』は文献の整理統合に重点が置かれているので、出土文献と関連するより多くの文を見ることができるのである[17]。


                                  参考文献

[1]于光.《伤寒论·序》作者之我见[J]. 贵阳金筑大学学报,2005(3):99-110.

[2]黄帝内经素问[M]. 北京:人民卫生出版社,1979:5.

[3]黄龙祥. 针灸甲乙经:精编版[M]. 北京:华夏出版社,20008:130-131.

[4]班固. 前汉书艺文志[M]. 北京中华书局,1985:40.

[5]李秀华.《淮南子》书名演变考论[J]. 西南交通大学学报:社会科学版,2009,(5):25-29,60.

[6]黄龙祥. 中国古典针灸学大纲[M]. 北京:人民卫生出版社,2019:130-131.

[7]刘海燕. 西汉梁孝王东苑初探[J]. 商丘师范学院学报,2005(3):139-141.

[8]郑一. 《灵枢·大惑沦》开创了精神分析的先河[J]. 中医药学报,1995(4):3-4.

[9]黄龙祥. 经脉理论还原与重构大纲[M]. 北京:人民卫生出版社,2016:52-65.

[10]黄龙祥. 扁鹊医籍辨佚与拼接[J]. 中华医史杂志,2015,45(1):33-43.

  〔季刊内經 No.203 2016年夏号 岡田隆訳:散佚扁鵲医籍の識別・収集・連結〕

[11]黄龙祥. 扁鹊医学特征[J]. 中国中医基础医学杂志,2015,21(2):203-208.

  〔季刊内經 No.204 2016年秋号 岡田隆訳:扁鵲医学の特徴〕

[12]李德辉. 兰台及其与东汉前期文学[J]. 华夏文化论坛,2015(01);29-38.

[13]李更旺. 西汉府官藏书机构考[J]. 图书馆杂志,1984(1):67-68.

[14]黄龙祥. 针灸名著集成[M]. 北京:华夏出版社,1997:5.

[15]真柳誠. 黄帝医籍研究[M]. 東京:汲古書院,2014:74-75.

[16]黄龙祥. 扁鹊医籍辨佚与拼接[J]. 中华医史杂志,2015,45(1):33-43.

  〔季刊内經 No.203 2016年夏号 岡田隆訳:散佚扁鵲医籍の識別・収集・連結〕

[17]黄龙祥. 中国针灸学术史大纲[M]. 北京:华夏出版社,2001:692-694.

  〔2021年に、森ノ宮医療学園出版部から翻訳が出版される予定(ダッタ)。〕


拙訳 黄龍祥 『鍼経』『素問』の編撰と所伝の謎を解く 03

 正しい翻訳は『季刊内経』No.220(2020年秋号)掲載

 左合昌美先生訳 『針経』『素問』編撰と流伝の謎を解く

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4 作者

 著者について、筆者の最近の研究でわかったことは、『鍼経』と『素問』がともに一人によりまとめられたことである。作者の名前は不明だが、この人は以下の条件を備えていると判断できる。①国家蔵書機構に長期にわたって勤めた経験があり、劉向や李柱国が整理した全部または大部分の医学書を利用できた。②該博な天地人の知識および非凡な文章表現能力を持つ。

    〔李柱国:漢の成帝時(前33~29年)の侍医で、医経など方技書の校訂に参与した。〕

『鍼経』『素問』を編纂するために採用された大量の漢以前の医経類の古書を、民間で揃えるのは不可能である。たとえ前漢の最も盛名を博した淮南国や梁国といった地方の学宮〔学校〕であっても揃えるのは容易ではない。後漢になって、劉向父子が校定した書籍がしだいに社会に流布し、それまで国家蔵書機構に収蔵されていた古籍の定本を民間で見る機会が得られたとしても、古籍が手書きで伝えられた時代には、特別な背景を持たない学者が、劉向父子が整理した全部または大部分の古医籍を読むことは明らかに不可能である。これについて『漢書』藝文志の方技略総序は、つぎのようにはっきり述べている。「方技者、皆生生之具、王官之一守也〔方技なる者は、皆な生生の具、王官の一守なり〕」[7]78。また『黄帝鍼灸甲乙経』序には、「方技者、蓋論病以及国、原診以知政。非能通三才之奥、安能及国之政哉〔方技なる者は、蓋し病を論じて以て国に及び、診を原(たず)ねて以て政を知る。能く三才の奥に通ずるに非ざれば、安(いず)くんぞ能く国の政に及ばんや〕」[14]とある。そのような特殊な社会背景の下で、『鍼経』『素問』のような各家を集大成し、また自ら体系をなした医経をつくることができる可能性が最も高い人は、蘭台の令官、あるいは長く蘭台に勤務した経験のある医官または著名な学者である。

    〔後漢に始めて置かれた宮廷の蔵書の校定などを担当する「蘭台令史」という官があった。〕

 次のような可能性もある。劉向父子と李柱国による医書の校正には、二段階の壮大な計画があった。第一段階で伝世の各医経を整理し、第二段階において新しい理論体系を構築し、百家を合わせて統一する。この可能性があるなら、この計画の第二段階の計画は、李柱国またはその後継者によって達成された可能性がより大きい。

 さらに考察すると、次のことが明らかになる。『鍼経』『素問』は官修〔政府編修〕ではなく私修〔私的編修〕に由来する。これらの条件を備えた作者は、在任中に編纂したのではなく、退職したり、政治的な連座により罷免されたりしたのちに創作したのである。なぜなら劉歆本人がその在任前または在任中の同僚の著作であれば、劉歆は知らないはずがないし、かつ極端な政治的要因がない限り、著録しないわけにはいかないからである。

 著者は必ずしも優れた医術の医官でなくとも、非常に高い理論構築能力を持っていなければならない。『鍼経』の構想と執筆から、著者の理論的洞察力が張仲景に勝るだけではなく、更に後の『鍼甲乙経』の作者にも勝ることが容易に見て取れる。『鍼経』『素問』に反映されている著者の学識から見れば、この人は当時の通儒の大家〔古今に通暁し学識が該博な儒者〕であり、その在任期間中、医学書の定本を繕写〔謄写編集〕する際に自分用に副本を取っておき、老年になってこの副本をもとにこの世を驚かす作品を創作した可能性が高い。言い換えれば、本書の編纂方法と作者の経歴は、司馬遷が『史記』を編修したのと同じで、個人が編纂したものであって、集団で編纂したものではない。作者は長い間官職に就いていたが、編纂が完成したのは職を退いた後である。その上『鍼経』のような「一家の言を成す」、特に公理的な方法で統一理論体系が構築された著作は、個人にしかできない。


5 伝承

『鍼経』『素問』の伝承について、筆者の最近の研究では以下のような結論が得られた。

 第一、『淮南子』の運命とは正反対で、外篇は広く伝えられたが、内篇は限定的であった。

 他の内外に篇が分かれた子書の伝承の法則性とは異なり、外篇『素問』は注目度が高く、改編され、続補され、注解されたが、内篇『鍼経』が改編や注解されることはまれであった。伝承の上でこのような特殊な現象が現われたことについて、以下の二つの要素が関係すると考える。その1、『鍼経』は入念に構想して編纂されており、全体に一貫した内在論理がある。作者の編纂思想を理解できないならば、後代の人は改編しようとしてもほとんど手の下しようがなく、これ以上創作する余地は小さい。対して外篇『素問』の応用例と資料性は、その筋道と系統性において内篇『鍼経』には遠く及ばないため、さらに整理する余地が大きい。その2、筆者の『鍼経』『素問』に対する総合的な調査によれば、六朝時代に全元起が整理した後の『素問』には、多くの文字の重出と混乱があり、さらには同じ文章が異なった篇に重出していることさえあった。以前の伝本に混乱や重出がひどければ、「其の重複を去る」ことは、本を編集するための基本的な要求である。このことは、ある種の突発的事件があったために、全体の編纂(主に外篇である『素問』の部分)を完成できなかった可能性を示唆する。つまり本書が未定稿――内篇には題名がまだ付けられず、その上全体の書名もない――であることと、みな関連があるのかも知れない。

    〔子書:中国古代の図書は、経・史・子・集の四つに分類される。その三番目。ここには諸子百家・仏教・道教・小説・技藝・術数などの著作が含まれる。

     『素問』王冰序:「而世本紕繆、篇目重畳、前後不倫、文義懸隔、施行不易、披会亦難、歳月既淹、襲以成弊。或一篇重出、而別立二名。或両論併呑、而都為一目。或問答未已、別樹篇題、或脱簡不書、而云世闕、……其中簡脱文断、義不相接者、捜求経論所有、遷移以補其処、篇目墜欠、指事不明者、量其意趣、加字以昭其義。篇論呑幷、義不相渉、闕漏名目者、区分事類、別目以冠篇首。君臣請問、礼儀乖失者、考校尊卑、増益以光其意。錯簡砕文、前後重畳者、詳其指趣、削去繁雑、以存其要」。〕

 第二、伝世本には亡佚・錯簡・続編がある。

 亡佚の証拠:伝世本『素問』の篇目および本文の亡佚については、非常に多くの考証があるので、贅言しない。実は、伝世本の『霊枢』にも失われているところがある。一番はっきりしているのは刺節真邪篇が引用する『刺節』の原文であり、早くからない。

 錯簡については、唐代の王冰が注解したとき、すでに明確に指摘している。具体的な状況は以下の通り。

    「帝曰:形度・骨度・脈度・節度,何以知其度也了」。

    王冰注曰:「形度、具『三備経』。節度・脈度・骨度、幷具在『霊枢経』中。此問亦合在彼経篇首、錯簡也。一経以此問為『逆従論』首、非也」。(『素問』通評虚実論(28))

    「治在『陰陽十二官相使』中」。

  王冰注曰:「言治法具于彼篇、今経已亡」。(『素問』奇病論(47))

  詳らかにするに、全元起注本『素問』には『十二蔵相使』篇があり、「凡此十二官者、不得相失也」「主不明則十二官危」の論があることから、『陰陽十二官相使』はこのような篇章であると推測される。

    〔『素問』霊蘭秘典論(08)の冒頭:「新校正云:按全元起本名『十二藏相使』在第三巻」。〕

 このほか、『素問』にある注〔『霊枢経』曰:などの引用文〕と『霊枢』の経文が完全には対応していないことからも、原文に脱簡や錯簡があることが見いだせる。

 錯簡、同一書内あるいは同じ篇内の文章の前後の乱れについては、古今の注家がすでに多くの実例を発見し、指摘している。筆者が気づいたのは、『鍼経』の結語にあたる官能篇でまとめられた諸篇の要となる文のうち、伝世本『霊枢』には見えないものが1条あり、それが『素問』調経論(62)に見られることである。ちょうどこの篇は、『鍼経』理論体系を構築するための原案を明確に提出し、疾病の全般的な病機や鍼灸治療の全般的な治則を論述し、全般的な病因などの重要な理論命題を確立していて、全理論体系を構築する上で不可欠の重要な篇章である。著者の内外篇の構想原則に従えば、これも内篇に置かれてしかるべきものである。初期の伝本では、内外篇が一つまとまりとして伝えられ、そのうえ内篇は書名を欠いてたため、内外篇の文は混乱が生じやすかった。しかし現在のところ、さらに多くの『鍼経』と『素問』の両書で互いに入れ違っていることの証明となる、より多くの実例を見つけられていない。

 このほか、伝世本『霊枢』の19~26篇はいささか特殊である。その1、黄帝君臣の問答(19篇の引用は除く)がない。その2、道を論ぜず、病症診療をいう。理屈からいえば、内篇ではなく外篇に置くべきである。これには二つの可能性がある。その1、伝えられる過程で篇の順序〔位置〕が乱れ、外篇にあった篇が内篇に混入された。その2、内篇は伝えられる過程で、篇目〔いくつかの篇〕が欠失して九巻に足りなくなったが、初期の伝本名が「九巻」であることは周知のことであったし、また、経文には「余聞九鍼九篇、夫子乃因而九之,九九八十一篇」と明言されている。それゆえ、外篇の文を用いて内篇の欠を補った。『素問』が早い時期に一巻を失ったことは、このこととあるいは関係があるのかも知れない。

 また、伝世本『素問』が記載する王冰が引用する『霊枢経』『鍼経』の文、および林億の新校正による注文に基づき、伝世本『霊枢』の脱字・誤字・錯簡の例を知ることもできる。具体的には以下のごとし。

    経文:「中部人、手少陰也」。

    王冰注曰:謂心脈也。在掌後鋭骨之端、神門之分、動応於手也。『霊枢経』持鍼縦捨論、問曰:「少陰无輸、心不病乎?」対曰:「其外経病而蔵不病、故独取其経於掌後鋭骨之端」。正謂此也。(『素問』三部九候論(20))

 いま調べてみると、王氏が引用した「持鍼縦捨論」の文は、伝世本では邪客篇に見られる。このことは、以下のことを物語っているのかも知れない。すなわち、伝世本の邪客篇は、原始本にあった複数の篇を一つに再編したもの、あるいは早期の伝本では「持鍼縦捨論」と「邪客」が隣り合っていたため、前者の篇名の文字が脱落し、その本文が伝世本の邪客篇に混入してしまった。

    経文:「去寒就温、無泄皮膚、使気亟奪」。

    王冰注曰:去、君子居室〔正しくは「去寒就温、言居深室也」〕。『霊枢経』曰:「冬日在骨、蟄虫周密、君子居室」。(『素問』四気調神大論(02))

 いま調べてみると、王氏が引用した『霊枢経』の文は、伝世本『素問』の脈要精微論篇に見られる。

    経文:「以淡泄之」。

    王冰注曰:淡利竅、故以淡滲泄也。蔵気法時論曰:「脾苦湿、急食苦以燥之」。『霊枢経』曰:「淡利竅也」。(『素問』至真要大論(74))

 いま調べてみると、以上の王氏が引用した『霊枢経』の文は、伝世本には見えない。

    経文:「其気以至、適而自護」。

    王冰注曰:『鍼経』曰:「経気已至、慎守勿失」。此其義也。(『素問』離合真邪論(27))

    経文:「為虚与実者、工勿失其法」。

    王冰注曰:『鍼経』曰:「経気已至、慎守勿失」。此之謂也。(『素問』鍼解(54))

 この〔鍼解〕篇の下文にすぐ「経気已至、慎守勿失」という〔経〕文があるのに、王冰は本篇の経文を引用せず、「『鍼経』曰」と注する。『素問』離合真邪論も同じ〔で「『鍼経』曰」と注する〕。また鍼解篇は、『鍼経』九針十二原篇の経文の注解であることは知られている。したがって、引用された「経気已至、慎守勿失、勿変更也」が『鍼経』の文の注文であることが知られる。王冰が見た『鍼経』の伝本ではまだこの篇が失われていなかったので、これを引用できたのである。

 外篇にあたる『素問』の配列に手が加えられていることについて、特に唐代の王冰が重注した時に行なった大幅な配置移動については、すでに多く現代人には知られているので、詳述しない。『鍼経』の配列の変更については、『素問』よりはるかに小さいとはいえ、伝世本の配列順序が原本とは異なっていることを示す証拠もある。最も顕著な例は、結語にあたる官能篇であり、伝世本では第73篇目であって、最終篇ではない。

『素問』以外の各篇を総称して「九巻」と呼んだということは、そう呼んだ最初の時点ですでに『素問』が九巻ではなかったことを暗示している。また、早い時期の伝本である『鍼灸甲乙経』『太素』に収録された『素問』のテキストも、みな〔一部の文章が欠けていることは除くとして〕まるまる一つの篇が伝世本に見えないというのは発見されていない。これは二つの可能性を示唆する。その1、『素問』の篇目の失われた時期が早い。その2、『素問』はもともと8巻であって、失われたことはない(伝承の過程で一時失われたことを除く)。

 筆者の調査では、最も早く直接『鍼経』『素問』を引用しているのは、漢代の『難経』と『黄帝明堂経』であり、最も早く直接引用し、かつ出典を明示したのは魏晋の『脈経』である。

 伝世本『霊枢』『素問』の源流について、日本の学者、真柳誠教授による近年の最新研究成果が指摘するところでは、現行の『霊枢』24巻は北宋・元佑刊『鍼経』9巻系統に基づいて改編されたもので、祖本は南宋・国子監紹興25年序刊本である。この時、国子監は『霊枢』と『素問』を合刻し、両書の合刻本を『黄帝内経』と総称したのである[15]。


拙訳 黄龍祥 『鍼経』『素問』の編撰と所伝の謎を解く 02

 正しい翻訳は『季刊内経』No.220(2020年秋号)掲載

 左合昌美先生訳 『針経』『素問』編撰と流伝の謎を解く

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2 書名

 伝世本『霊枢』『素問』の命名については、先人の研究を総括して次のように判断した。

 第一、外篇の名は『素問』である。内篇には固定した名称がなく、唐は以前は「九巻」が暫定的に用いられた。あわせて前後して、「九虚」(「九墟」とも書く)、「九霊」、「鍼経」、「霊枢」など、異なる命名案があり、伝世本では『霊枢』が引き続き用いられている。

 第二、もともと全体の書名はない。筆者としては、内外篇全体の命名案として内篇は「黄帝鍼経」、外篇は「黄帝素問」と決めた。

 内篇の題名について、伝世本『霊枢』の冒頭篇「九針十二原」は、「鍼経」といい、口問篇も「九鍼の経」という。筆者は調べてみて、伝世本『霊枢』と『素問』中の「九鍼」には広義と狭義の2つの用法があることに気づいた。広義の「九鍼」は鍼灸の道を指すが、狭義の「九鍼」は9種類の鍼具を指す。書名としての「九鍼の経」の「九鍼」は広義の用法であるが、書中に多く登場する「九鍼」もしばしば「九鍼の経」の略語、つまり「鍼経」を指すものとして用いられている。

  しかし、原本に書名がなかった、あるいは原本の書名が書き写し伝えられる過程で失われたため、漢末の『傷寒論』序は、内篇を援用する際そのまま「九巻」の名を用いている。しかし、この序文の構成と年代については学界に論争があり[1]、これを根拠として、この暫定的な名称がすでに漢代に見える、と確定することはできない。年代の確実な魏晋の『脈経』が『九巻』として内篇を引用しているのは明らかだが、伝世本『脈経』ではこれらの引用文の出典が全部『鍼経』に変更されている。これは宋代の校正医書局が変えたものである。宋以前にあった古本『脈経』の引用文の表記については、唐代の王冰「補注黄帝内経素問序」に附された「新校正」が、次のようにはっきり述べている。「又『素問』外九巻、漢·張仲景及西晋王叔和『脈経』只為之九巻、皇甫士安名為『鍼経』、亦専名『九巻』〔又た『素問』の外に九巻あり。漢の張仲景及び西晋の王叔和『脈経』は、只だ之を九巻と為(い)い、皇甫士安 名づけて『鍼経』と為し、亦た専ら『九巻』を名とす〕」[2]。ここでは、張仲景の書と『脈経』は、内篇を引用するのに、いずれも「九巻」の名を用いていることが明言されている。「皇甫士安名為『鍼経』、亦専名『九巻』」とは、『鍼灸甲乙経』序が引く『鍼経』を指しているが、本文の引用文では『九巻』と表記されていることを言っている。あいにくなことに、伝世本『鍼灸甲乙経』序にも疑問があるので[3]、これに基づいて西晋時代にはすでに「鍼経」という名称が内篇を指す名称として専ら用いられていた、とは認定できない。これから分かることは、初期に伝えられた内篇には書名がなく、後世の医書ではそのまま「九巻」という暫定的な名称で引用され、唐代の楊上善が勅を奉じて『太素』を官修した時までは、「九巻」「素問」を用いて内・外篇を引いていて、専用の書名「九虚」(また「九墟」)「鍼経」「九霊」「霊枢」などは、みな晋以後、唐以前に登場し、その中の『霊枢』が継承されて今でも使われているということである。

 このように、伝世本の『霊枢』が言及する内篇の書名である「鍼経」は、正式な書名が付けられなかったか、あるいは伝えられた初期に書名が失われて、かなり長期にわたってずっと「九巻」という暫定名で伝えられていたことが分かる。対して外篇は、社会に流布したはじめからすぐに「素問」と呼ばれ、今に至るまで使われている。内篇外篇は最初から一つの書として伝えられたが、内篇外篇を統括する全体の書名はなく、後世になって「黄帝内経」を全体の書名として、内篇が「黄帝内経素問」(唐代の王冰注本)、外篇が「黄帝内経霊枢」(宋代の史崧本)といわれる。ここでの「黄帝内経」は、実際のところ「黄帝医経」の別称として用いられている。この点については、以下の古医籍の命名からはっきり見て取れる。すなわち『黄帝内経太素』と『黄帝内経明堂』である。この角度から見れば、「黄帝内経素問」「黄帝内経霊枢」という命名法は筋が通っている。しかしながら、この名称にすると、伝世本『霊枢』『素問』は『漢書』藝文志に著録されている『黄帝内経』と同じものであると、人々に極めて誤解されやすくなる。したがって、採用するべきではない。

 伝世本『霊枢』『素問』が最初に著録された官修目録『隋書』経書志には、『黄帝鍼経』『黄帝素問』とある。外篇の名称は古今に相違がなく、内篇には様々な名称がある。しかし、国内外の図書目録の著録を見ると、「黄帝鍼経」という名称がもっとも通用している。公式文書の正式名称からもこの点が見て取れる。例えば、唐政府の詔令永徽令・開元令および宋の天聖令は、みな「黄帝鍼経」と称している。

 『黄帝鍼経』『黄帝素問』という書名にある「黄帝」を「黄帝医経」または「黄帝医派」と読み解き、全体の書名として使用することは全く可能であり、かつこのような用例は、早くも漢代の劉向父子が校書した時にすでに創られ使われていた。

    〔『漢書』藝文志にいう「右醫經 七家、二百一十六卷。醫經者,原人血脈……」のことか。「黄帝医派」は未詳〕。

 伝世本『淮南子』を成立当初、作者である淮南王・劉安は『鴻烈』と名づけたが、これはただその主に編集した一部分の名であって全部ではないので、『漢書』は『内書』『内篇』と題している。前漢末の劉歆〔劉向の子〕は全体の書名を『淮南』と定めた。しかし内篇の原作者がつけた題名は「鴻烈」である。劉歆はあるいは政治的な要素に配慮して、不便だが評価の意味を含まない中立的な「内」字を選んだのかも知れない。雑家類には「『淮南内』二十一篇、王安①。『淮南外』三十三篇」として正式に著録された[4]。「淮南」については、地名・学派名・人名・書名といった多くの捉え方ができる。劉向・劉歆父子によって公式に認めれた『淮南内』は、政治的な影響がなくなる魏晋の時代になると、もともとの「内篇」という書名を人々がまた用いるようになり、さらに劉歆が考案したものを加えて、全体の書名を『淮南鴻烈』と名づけた。

    原注①:「王安」とは、「淮南王劉安」の略称か、あるいは劉安の誤りか、確定できない。

    〔劉安[生]文帝1(前179)?.~[没]元狩1(前122)。中国、前漢高祖の孫で、淮南王。『淮南子』の撰者。呉楚七国とともに景帝に対して謀反を企てて果たさず (→呉楚七国の乱 ) 、のちに多くの士を養って武帝の時代に再び挙兵しようとしたが、事前に発覚し、捕えられて自殺した。学を好み、多くの賓客とともに『内書』 21編、『中書』8編、『外書』 23編を著した。『淮南子』はその一部である『内書』にあたる。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)/『淮南鴻烈』、前漢の劉安・蘇非・李尚・伍被らの編著。/後漢の高誘『淮南鴻烈解』序:「号曰鴻烈。鴻、大也。烈、明也。……劉向校定撰具名之淮南。又有十九篇者、謂之淮南外篇」。/『漢書』巻44・淮南衡山済北王伝第14:「招致賓客方術之士数千人、作為内書二十一篇、外書甚衆、又有中篇八巻、言神仙黄白之術、亦二十余万言」。/『漢書』藝文志・雑家:「淮南内二十一篇(王安)。淮南外三十三篇」。〕


 この例によれば、『黄帝鍼経』『黄帝素問』の中の「黄帝」も、書名として理解してまったく問題ない。つまり「黄帝」を全体の書名として用い、「鍼経」を子目〔細目〕としての内篇の名とし、「素問」を子目としての外篇の名としている。全体の書名〔黄帝〕を加えれば、『鍼経』と『素問』が表裏をなす一つの書であることを示すだけでなく、漢代および漢以降に伝わった他の「鍼経」という名を持つ医書との区別も示せる。

 歴史と論理を統一するという原則に基づき、筆者は伝世本の『霊枢』と『素問』の名称案を以下のように確定する。内篇の名称は『鍼経』、外篇の名称は『素問』、内篇の非省略名は『黄帝鍼経』、外篇の非省略名は『黄帝素問』である。「黄帝」を全体の書名としたので、もはや「黄帝内経」を全体の書名としては用いない。したがって、以下では特に伝世本を除いて、内篇の正式名称として『鍼経』を採用し、『霊枢』『九墟』『九霊』をその別称とする。


3 年代

『鍼経』と『素問』の成書について、学界での見解の相違は大きい。しかし、「一時の文に非ず、一人の書に非ず」といった共通認識がある。筆者の最近の研究では、この共通認識とは正反対の判断が得られた。『鍼経』と『素問』は性質が異なるが、『鍼経』は「撰」であり、『素問』は「編」である。しかし同一人物が完成したもの、あるいは、みな漢代に成書したものである①。

  ①「漢代に成書した」とは、原作者が編集した原本の年代を指す。原本が社会に伝えられ、後の人がおこなった増補や改編は、原本の年代の認定に影響しない。例えば後代の人(特に宋人)が『傷寒論』『脈経』『備急千金要方』といった経典におこなった補足と改編の度合いは、『鍼経』『素問』に対する改編に比べて一層甚だしいが、学会ではこれらの経典は宋代に成書したという見解が提出されたことは一度もない。

 一例を挙げて、筆者の問題に対する解答を考える筋道を説明する。唐代の孫思邈『備急千金要方』は、唐以前の各家の文献を素材として編集したものである。もしこの書が書き写し伝えられる過程で、表紙と自序がともに失われたと仮定する。われわれは書名も作者も成書年代も知らない。従来の『鍼経』と『素問』の成書を考察した考え方に照らして、この書名・作者・成書年代の「三無」古医籍の年代を考察したら、どんな結論が得られるだろうか?この書を文献を編集したものと考えれば、次のような様々な異なる判断が得られる。すなわち、先秦に成書した。漢代に成書した。魏晋南北朝に成書した。隋代に成書した。唐代に成書した。そこで最後に、諸説を調停した「定説」が得られる。すなわち「此れ一時に成り、一人に出づるの書に非ず」②である。しかし、この先入観を捨てて、この書をある時期に単独のものとして成立した中医臨床診療全書とすれば、正しい答えが得られやすい。すなわち、本書は唐代に成書したものであり、さらに比較的正確な成書年代を狭めることができる。

  ②この論理によって類推すれば、多くの後世の中医古典は、みな一時の一人の作品ではないと言える。『新修本草』『証類本草』『本草綱目』『諸病源候論』『太平聖恵方』が、その最も典型的なものである。

  〔「此非成于一時出于一人之書」は、漢代以前に成書した書籍についてよく言われる言葉。たとえば、余嘉錫『四庫提要辨証』巻7・越絶書:「要之、此書非一時一人所作」。『素問』について呂復は「『内経素問』、世称黄帝岐伯問答之書、及観其旨意、殆非一時之言、其所譔述、亦非一人之手」(『九霊山房集』巻27)という。〕

 この仮想的な年代調査実験を通して、われわれは以下のことがはっきりする。すなわち現在『鍼経』『素問』の成書を調査考察するとは、それが編集された年代のことであって、その書の中に採用された原始文献の年代のことではない。この思考回路によれば、漢以前の古医籍を多く書中に素材として取り入れているとしても、伝世本『霊枢』『素問』が成書したのは漢代である、と確定できる。

 第一、書籍の性質から考察すると、『鍼経』と『素問』、特に前者は古典を整理した成果ではなく、理論革新の著作であり、『漢書』藝文志に著録された『黄帝内経』『黄帝外経』とは性質が全く異なる。

 第二、『鍼経』の序論的性質を有する初篇「九鍼十二原」の構造から見て、その本文は秦代、乃至先秦の文献を採用しているとはいえ、主人公の前口上ははっきりとした漢帝の口調を帯びている[6]。

 また九針十二原篇の冒頭の文章から知られることは、黄帝の口を借りてこの書を編纂する趣旨と編纂計画を述べていることであり、本書の作者の手によるのは間違いない。しかし、作者の筆による「黄帝」のイメージは秦の始皇帝とは相容れず、かえって『漢書』に記載されている漢帝の言動とそっくりであり、これはまさに本書の作者が身を置いた年代を反映しているのである。本文に秦代や先秦の特徴ある文が現れるといっても、この篇が漢代に創作されたという確定になんら影響はない。また知られることは、全体の結びの篇としての官能篇は、首篇である九針十二原と相応じていて、いずれも一人の手によることである。であれば、これも必ず漢代に書かれたことになる。もしこの書の序論と結語が漢代に書かれていると確定するならば、本書全体が漢代に書かれていると基本的に判定してよいことになる。

 第三、『霊枢』大惑論に「東苑」「清泠の台」とある。「東苑」だけならば、いつのどこの建築物であるのか確定するのは難しいけれども、「東苑」と「清泠の台」が一緒につながっているのであれば、正確な場所を探し出すことができる。東苑とは、前漢の梁孝王が紀元前153年から紀元前150年の間に建てた、あずまや・離宮・湖水・奇山・草花・陵墓などが一体となった皇帝が狩猟・巡行・娯楽などをおこなうために供される多目的庭園であり、「清泠台」はその中の美しい景観の一つである[7]。

『霊枢』大惑論で述べられた故事は、東苑を背景に、ある漢代の帝王の真実の診療録である可能性が極めて高い。つまり、世界で最初の精神分析法を適用した診療録と称することができる[8]。このほか、この内篇に反映されている精細な死体解剖の知識の最も可能性の高い情報源は、王莽時代の公式死体解剖の成果である[9]。ほぼ後漢末以後、東苑はしだいに荒廃した。したがって大惑論は、後漢以前に書かれたに違いない。

 第四、本書の全体的な学術の大筋から見ると、内外篇はともに扁鵲医籍の文を大量に引用しているが、すべて新しく決めた理論の枠組みに合わせて変更を加えている[10]。例えば五色篇は素材を扁鵲医学から取っているが、中に挿入された脈法は『鍼経』が推奨する最新の診察法「人迎寸口脈法」であって、これは後代の人が編集した動かぬ証拠である。また、『史記』扁鵲倉公列伝や近ごろ老官山から出土した扁鵲医籍からも分かるように、漢代の初中期に流行した扁鵲医籍に見られる蔵象説は、「心肺肝胃腎」を五臓とし、〔前〕漢中期の非医籍『淮南子』と依然として同じである。しかし『鍼経』の新しい理論体系では、扁鵲が五蔵として論じている「胃」は、一部の置き換えられていない例を除いて、みな「脾」に換えられている[11]。また、五蔵の五行配当には、いわゆる「古文説」と「今文説」があるが、『鍼経』『素問』に見えるものはほぼ例外なく「今文説」である。これは明らかに、著者が新たに定めた理論枠組みに基づいて改編した結果である。

 第五、内外篇のテキストから、それが置かれた社会背景には以下の特徴があることが容易に見いだせる。その1、国土の統一、思想文化における大一統〔天下統一の重視〕の成熟、そして黄帝文化の大一統の指導者としての地位の確立。その2、医学の象徴的な意味としての扁鵲の下降の始まり、それに対する黄帝の上昇。その3、黄帝諸臣内での岐伯の地位の向上。その4、医学文献が極めて豊富になり、かつ系統的に整理された。以上の4つがみな備わっているのは、漢代である。『漢書』藝文志に著録された医経類の図書目録では、黄帝の名義に帰する医経の篇巻の数が明らかに扁鵲のものを超えていること、また神仙類の図書目録に『黄帝岐伯按摩』十巻が著録されていることから、以下のような結論が下せる。すなわち、遅くとも劉向が校書したときには、医学の象徴としての扁鵲の意味が下降し始め、医学の象徴としての黄帝の意味が上昇し、かつ黄帝諸臣内での岐伯の地位が向上し、さらに医学の始まりとの関連が明らかになった。

    〔黄帝と岐伯は、医学の創始者とされ、医学を「岐黄の術」ともいう〕。

 第六、国家蔵書機構から見ると、「蘭台」は漢代に設立された国家蔵書機構で、内府〔宮廷〕に属する書庫である。『鍼経』『素問』には、秘典要籍を「霊蘭の室」に置くという経文が繰り返し登場する。その内容は以下の通り。

    「黄帝曰:……是謂陰陽之極、天地之蓋、請蔵之霊蘭之室、弗敢使泄也」。(『霊枢』外揣(45))

    「黄帝曰:善。請蔵之霊蘭之室、不敢妄出也」。(『霊枢』刺節真邪(75))

      ―楊上善注:霊蘭之室、黄帝蔵書之府、今之蘭台故名者也。(『太素』〔巻22〕五節刺)

    「黄帝曰:善哉、余聞精光之道、大聖之業、而宣明大道、非斎戒択吉日、不敢受也。黄帝乃択吉日良兆、而蔵霊蘭之室、以伝保焉」。(『素問』霊蘭秘典論(08))

    「帝曰:至哉!聖人之道、天地大化、運行之節、臨御之紀、陰陽之政、寒暑之令、非夫子孰能通之!請蔵之霊蘭之室、署曰『六元正紀』、非斎戒不敢示、慎伝也」。(『素問』六元正紀大論(71))

    「帝乃辟左右而起、再拝曰:今日発蒙解惑、蔵之金匱、不敢復出。乃蔵之金蘭之室、署曰気穴所在」。(『素問』気穴論(58))

    「黄帝曰:善乎哉論!明乎哉道!請蔵之金匱、命曰三実、然此一夫之論也」。(『霊枢』歳露論(79))

『素問』の経文そのものから「金蘭の室」は「金匱」であることが分かり、「霊蘭の室」についての楊上善注によれば、すなわち「蘭台」であり、みな蔵書の府である。その中の「蘭台」は漢代に設立された国家蔵書機構で、内府に属する蔵書室であり、多くの国家法規と皇帝の詔令などを所蔵している。同時にまた重要な校書・著述の場所でもある。蘭台の全盛期は前漢の明・章・和帝三朝のときで、和帝以後、東観の興隆とともに多くの文人が東観の修史に召集され、蘭台の国家蔵書・著述と校書の機能は、次第に東観に取って代わられた[12]。「金匱」は秦代の国家蔵書室であり、漢代には外府〔王室〕に属する蔵書室として用いられ、所蔵された多くは玉版〔貴重な典籍、特に図などを含む〕と図讖〔未来の吉凶を予言した書物〕である[13]。『鍼経』『素問』に見える多くの「霊蘭の室」「金蘭の室」が、みな「帝曰」「黄帝曰」とともに言及されているのも道理である。

 以上の6点を総合すると、以下のことが分かる。すなわち、『鍼経』『素問』は漢代に成書した。およそ文化思想の大一統を構築した『淮南子』がしだいに解禁されてきた前漢晚期から、『傷寒論』が成書した後漢晚期までの間である。第6条から見れば、成書年代の下限は、後漢中期まで引き上げることができる。なぜなら、後漢の初期には蔵書の校書はまだ蘭台で行なわれていたが、和帝〔在位88~105〕以後、後漢末まではずっと東観で行なわれていた。もし成書が後漢中期以後であれば、『鍼経』に頻繁に言及される国家官庁蔵書室の大半は、「東観の室」「東観」などと書かれたはずである。

『素問』のテキストにはより古風で素朴な特徴があるので、『素問』が先にでき『鍼経』ができたのはそれより後である、と考えるひとがいる。しかし筆者が調べたところ、『素問』には『鍼経』の結語篇の文を注解した篇が2篇あるのだから、『鍼経』より前に成書したはずがないことは明らかである。人々がこのような印象を持つ理由は、主に作者が内外篇に対して異なる位置づけをし、異なる編纂方法を採用したことを理解できていないことによる。『鍼経』の理論革新に対して、『素問』は古典の整理という性質をより多く持っているため、集録された初期文献の旧態がより多く保存されているのである。


拙訳 黄龍祥 『鍼経』『素問』の編撰と所伝の謎を解く 01

正しい翻訳は『季刊内経』No.220(2020年秋号)掲載

 左合昌美先生訳 『針経』『素問』編撰と流伝の謎を解く

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○付き数字の後の文は、原注。原文では、頁末の脚注になっているが、翻訳では段落の末に移した。

〔〕内は、訳注。 

 【要旨】伝世本『霊枢』『素問』の編纂にかかわる思想を掘り下げ整理することによって、両者は一つのまとまった書籍の二つの部分であることが分かった。両者の性質と関係は、『霊枢』は内篇で、理論革新の作であり、その叙述方法は「撰」を主とする。『素問』は外篇で、臨床応用と資料整理の性質を有し、叙述方法は「編」を主とする。内篇外篇はいずれも前漢晚期から後漢の間に成書した。作者は国家蔵書機構に長く勤めていた一流の学者である。宋以前では外篇は広く伝えられたが、内篇は限定的であった。両者は伝承される過程で、内容に亡佚・補足、篇の順序の乱れや人為的な調整があるとしても、全体としては変容の程度はそれほど大きくない。特に内篇『霊枢』に関してはそうである。

  【キーワード】『鍼経』;『素問』;『黄帝内経』;編纂思想;版本の流通伝播

 伝世本『霊枢』『素問』はいつ成書したのか?誰の手によるのか?古い医籍を整理した産物か?それとも理論革新の結晶か?二つの異なる本か?それとも同一書の異なる二つの部分か?筆者の最新の研究で得た結論は以下の通り。

 第一、伝世本『霊枢』『素問』は一つのまとまった本の二つの部分である。前者は内篇であり、理論革新の作品である。後者は外篇で、臨床応用と資料整理の性質を有する。原書は全体の題名は付けられなかった。その外篇は『素問』という。しかし内篇には書名が付けられず、魏晋の時には暫定的に『九巻』が用いられた(後にはまた『九霊』『九墟』『鍼経』『霊枢』などの別称もある)。『鍼灸甲乙経』序は「黄帝内経」を「九巻」「素問」の全体的な書名としたが、劉向が整理し、『漢書』藝文志に著録された『黄帝内経』とは異なる書である。

    〔劉向:[前77ころ~前6]中国、前漢の経学者。本名、更生。字(あざな)は子政。宮中の書物の校訂・整理に当たり、書籍解題「別録」を作り、目録学の祖と称される。/デジタル大辞泉〕


 第二、この本の内外篇はともに前漢晚期から後漢の間に成書した。作者は国家の蔵書機構に長い間勤めていた一流の学者で、主に執筆された時期は、その退任または罷免された後の数年間内である。

 第三、『霊枢』『素問』は伝承過程において、その内容は亡佚および補足、篇の順序の乱れや人為的調整があるが、全体的に言えば、変容の程度は大きくない。特に『霊枢』の部分に関してはそうである。

 第四、この書の内篇『霊枢』の主要な価値は、漢以前の各医籍を保存することではなく、漢以前の各医家の説を整理統合し、統一的な中医鍼灸学の理論体系を創設したことにある。


1 構成

 伝世本『霊枢』『素問』の篇名を詳しく調べてみると、次のような法則があることが分かった。

 ①身体観の系統的な論述、および鍼灸学体系の分部理論(気街説・経絡説・経筋学説・営衛説・三焦説など)は、いずれも『霊枢』にあり、鍼道に関する解釈・修練・応用、および非主流の諸説別論は、『素問』に多い。

 3篇の鍼道別論「陰陽別論」「五臓別論」「経脈別論」はすべて『素問』にあり、その他の別説もみな『素問』にも置かれている。6篇の経文に関する注解は、「小鍼解」の1篇を除いて、その他の5篇はみな『素問』にある。また、収録されている扁鵲医籍7篇も、『素問』にある。

 ②主流である学説・診法・輸穴・刺法・治法は、『霊枢』にある。しかし主流ではない、あるいは廃れてしまった学説・診法・刺法・治法は、『素問』にある。

 例えば、正経〔十二経脈〕・経刺および経輸の本輸・標輸・背輸に関する論などは、みな『霊枢』にある。しかし奇経・繆刺・背輸の別法は『素問』にある。漢代に主流であった、あるいは新たに提唱された寸口脈法・人迎寸口脈法といった脈診は、『霊枢』に集中している。しかし三部九候のような脈診の古法は『素問』にある。扁鵲の早期の鍼処方である砭刺と刺脈のような鍼の古法、および灸法の臨床応用などは『素問』にある。

 ③刺法の基準と治療の大法〔憲法・法則〕は『霊枢』に集中し、具体的な臨床応用は『素問』に多い。

 標準および治療の大法は『霊枢』にあり、著者の「必明為之法(必ず之を為す法を明らかにし)」「為之経紀(之を経紀と為す)」〔『霊枢』九針十二原(01)〕という編纂の趣旨をまさに体現している。

 以上の3つの面の対比から、著者の『霊枢』『素問』両書に対する異なる位置づけが非常に明確に反映されているのが分かる。すなわち『霊枢』が主であり、『素問』が補である。漢代の書籍にある「内」「外」という体裁で分けるとすると、『霊枢』は内篇であり、『素問』は外篇である。内篇では理論の革新、体系の構築がより多く体現されていて、外篇では理論の臨床応用に重きを置き、より多く実用性と資料性を体現している。前者は「撰」の要素がより多く、後者は「編」の要素がより多い。

 篇名から見ても、『霊枢』『素問』の主従関係は一目瞭然である。『霊枢』には「玉版」があり、『素問』にはこの篇を発展させた「玉版論要」「玉機真蔵」がある。『霊枢』には「経脈」があって、『素問』には「経脈別論」がある。

 引用文の記述形式をみると、伝世本『霊枢』『素問』には7箇所、引用文の前に「経言」の表記がある。そのうち6例は『素問』で、引かれている文はすべて伝世本『霊枢』に見られる。『霊枢』に見えるのは『歳露論』の1例のみである。「黄帝問于岐伯曰:『経』言夏日傷暑、秋病瘧。瘧之発以時、其故何也?」この文は『鍼灸甲乙経』と『太素』には見えないし、次の答えも質問には対応していない。明らかに誤りである。『素問』には『霊枢』の経文を注解した篇がたくさんあるが、『素問』自身にある経文を注解した篇は一つもない。反対に『霊枢』には『素問』の経文を注解した篇はなく、唯一あるのは『霊枢』自身の経文のみである。『霊枢』を「経」、『素問』を「伝〔注解〕」として構想した作者の意図が明らかに見てとれる。伝世本の『霊枢』『素問』の関係は、漢代の劉安『淮南内』『淮南外』の「内篇は道を論じ、外篇は事を言う」〔『漢書』藝文志「淮南外三十三篇」顔師古注:「内篇論道、外篇雑説」〕のようなものであり、道と事の関係もまさに『淮南子』後序に言う『道を言いて事を言わざれば、則ち以て世と浮沈する無し。事を言いて道を言わざれば、則ち以て化と遊息する無し」である。このように、内外表裏が符合し、主と次があり、詳と略があり、一方では理論革新の簡明さが際立ち、一方では臨床応用の実用性と資料性を兼ね備えている。

 このような内外篇の異なる性格と目的の位置づけも、両者の書き方での異なる構想を決定づけた。具体的な情況は以下の通り。

 内篇には構想上、序論的性質をもつ冒頭篇「九針十二原」と全書の要旨を総括する結語篇「官能」がある。各篇の間の論理関係が緊密であるため、全体にわたって前後の篇章には高い頻度で内容を相互に引用する「互引」の例が現われる。外篇『素問』には構想上、内篇で論じられた鍼道に対する注釈と応用、および鍼道の非主流の別論が示され、実用性と資料性が際立つ。したがって、多くは篇と篇の間には密接な内在的なつながりはあらわれず、「互引」の例はほとんど見られない。

 また指摘しなければならないのは、『霊枢』はもともと9巻であったかも知れないが、81篇とは限らない。伝世本48篇「禁服」は「九鍼六十篇に通ず」という。また結びにあたる「官能」篇は伝世本では73篇目であることから、原本の篇幅は70篇前後と推測される。伝世本の『霊枢』の前9篇を詳細に読んでみると、全書を大きく要約したもののようであることに気づく。なぜなら、「終始」(9)を先に編集していたのであれば、「禁服」(48)を再編する必要がなく、たとえ編集するとしても終始篇を直接引用するはずで、「外揣」(45)からは引用しないはずである。同様に「経脈」(10)の人迎寸口診法の内容も、終始篇を直接引用するはずで、禁服篇からは引用しないはずである。これから推察すると、『鍼経』の原本は、60篇で完成した本をまず編集し、さらに9篇の略本を編集し、結語篇を加えて、全体の篇幅は70篇前後となったのである。