2023年4月13日木曜日

天回漢墓医簡中の刺法 04

 4 各類の病症に関する刺法を論ずる

 竹簡の文例:

 【蹷】,兩胻陽明各五,有(又)因所在。(666)𥢢=(㿗,㿗)山(疝),暴L,侖,𤵸(癃),轉胞,蹷(厥)陰各五。(630)

  脛(痙),北(背)巨陽落各五。(643)

  身盈,在肌分㓨(刺),在胻=(胻胻)㓨(刺)。(657)

  水,巨陽落(絡)與腹陽明落(絡)會者各八。(637)

  厀(膝)攣痛,因痛所,以劇昜(易)為數。(664)


 本篇の各論部分には42条があり,風・脛(痙)・水・單(癉)・顛疾・𥢢山(疝)・痿・蹷・狂・膚張(脹)・肘(疛)・欬上気などの病証におよぶ。各条はおおむね「病名-鍼刺部位-(数)」という規範的な体例に従って書かれている。鍼刺の数には五・十・三・八・四があり,「五」とするものが最も多く,全部で29箇所ある。「八」と「十」はそれぞれ2箇所,「三」「四」はともに1箇所のみである。ほかに6条には数は記載されておらず,1条は数の部分が闕文となっている。

  鍼灸部位で分けるならば,「巨陽」「少陽」「陽明」「大陰」「少陰」「厥陰」という三陰三陽の名称はすべて経脈(あるいは絡脈)を指している。その刺法がすなわちいわゆる「脈刺」であり,全部で32条ある。本篇の特徴は,言及されている経脈の前には,足・辟(臂)・胻・肩・北(背)・項・頭・頰・耳前など,具体的な部位がみな冒頭にあることである。これ以外では,竹簡の文に督・心落(絡)・陽明落(絡)・巨陽落(絡)・兩辟(臂)內筋間・足大指讚(攢)毛上などの部位も現われることである。注目に値することは,本篇には『脈書』下経に見られるような「手心主脈」がないことである。鍼刺部位に「兩辟(臂)內筋間」(633)という呼称があることから,おそらく当時はまだ「手心主脈」という概念に進展していなかったのであろう。くわえて,本篇では「×落」「××落」とされ,「落」字がみな用いられており,「絡」字ではない。『漢書』芸文志の「医経」の小序でも「醫經者,原人血脈・經落・骨髓・陰陽・表裏」と,「經落」が用いられていて,これには必ず基づくところがあることがわかる。

 「分刺」はこの部分に「身盈,在肌分㓨(刺)」(657)の一条が見えるだけで,「水」に言及するところも,「水,巨陽落(絡)與腹陽明落(絡)會者各八」(637)の一条だけである。しかしこの一条は刺絡法を用いていて,脈刺の条文に属すると思われるが,本篇にいう「刺水」のであるかどうかは,つまびらかではない。

 このほか,本篇には刺鍼部位について,「因(病)所在」の刺法もある。全部で11条(「脈刺」と3条重なる),その刺鍼数は3条では,「以劇易為數」(644),すなわち症状の軽重によって刺鍼数が決定される。これも後世の「以痛為腧」および「阿是穴」の取穴方法への道を開いた。本篇にある刺法と刺鍼数の対応関係を表にしてに示し(表1),参考に供する。


表 1 『㓨(刺)數』篇に見られる刺法と刺鍼数の対応関係

 刺鍼数 五  十 三  八  四 数なし 数闕

 脈刺  28  2  0   1   0    0          1

   分刺     0   0  0   0   0    1          0

 因所在    3   1  1   1   1    4          0

   不刺     0   0  0   0   0    1          0


 注:表にある数字「五」「十」などは,本篇に出現する鍼刺の数である。「なし」とは明確な鍼刺数の記載がないもの,「闕」とは文字の記載はあるものの筆跡がはっきりせず,判読が困難なもの。アラビア数字の28・3・1などは,その数が記載されている竹簡でそれぞれ見える頻度を示す。


2023年4月11日火曜日

天回漢墓医簡中の刺法 03

 3 鍼刺時の診法の運用を論ずる


【切】病所在,【脈】熱,勭(動)不與它【脈】 等,【其應】手也疾,【盛則】勭(動),其應手疾,其虛則徐。病不已,間日覆之;病(652)已,止。所胃(謂)分㓨〓(刺,刺)分肉間也。(669)


 【切】字は,実際は「扌」と「七」にしたがう字形であり,現在の「切診」の「切」字である。『霊枢』刺節真邪に「用鍼者,必先察其經絡之實虛,切而循之,按而彈之,視其應動者,乃後取之而下之」[4]122とあり,『素問』挙痛論に「黃帝曰:捫而可得奈何?岐伯曰:視其主病之脈,堅而血及陷下者,皆可捫而得也」[5]80とあるのが,この「切病所在」の法である。

 張家山『脈書』簡63~64に「它脈盈,此獨虛,則主病。它脈滑,此獨{氵𧗿}(澀),則主病。它脈靜,此獨勭(動),則主病。夫脈固有勭(動)者,骭之少陰,臂之巨陰、少陰,是主勭(動),疾則病。此所以論有過之脈殹"」 [21]とある。按ずるに,『㓨(刺)数』篇にある診脈法は,『脈書』と同じく「比較診脈法」である。趙京生[15]74-75がまとめたものにもとづけば,この方法は経脈の体表搏動点を診察部位とし,脈動が他の経脈と異なることをもって経脈の病変を診察する基準とし,診察時に人体の多くの経脈とその脈動点をまんべんなく診察する必要がある。『内経』にある「三部九候脈法」と「人迎寸口脈法」はいずれもこの診脈法を継承したものである。

 『霊枢』経脈は,この診脈法をさらに発展させている。「脈之卒然動者,皆邪氣居之,留于本末。不動則熱,不堅則陷且空,不與眾同,是以知其何脈之動也」[4]36。その「邪氣居之,留于本末」とは,この竹簡にいう「病所在」である。「不動則熱」は,この簡の「脈靜,此獨動」に対応し,「不動則熱」はこの簡の「脈熱……盛則動」に対応し,「不堅則陷且空」は「其虛則徐」に対応していている。すなわち脈の虚実である。「不與眾同」は「動不與它脈等」に対応している。すなわちいわゆる「有過之脈」である。たがいに裏付ける関係にあって,同一の源から出ているにちがいない。


㓨(刺)數,必見病者狀,切視病所,乃可【循察】。病多相類而非,其名眾,審察診病而〓6〔艸+咸〕(鍼)之,病可俞(愈)也;不審(667)其診,〓6〔艸+咸〕(鍼)之不可俞(愈)。治貴賤各有理。(670)


 按ずるに,この竹簡の文章は,『素問』繆刺論にある「凡刺之數,必(「必」字は『太素』により補う)先視其經脈,切而順之,審其虛實而調之」[5]127を参照すると,鍼刺治療はまず患者を詳細に診察し,病気の所在を知り,病名を明らかにする必要があり,そうしてはじめて鍼をして病を回復するができることを強調している。「切視病所,乃可循察」は,「視其經脈,切而順之」と対応し,竹簡にいう「病所」は『素問』では「經脈」と明示されている。「循察」の二字ははっきりとは判読できないが,残筆と証拠資料から釈読したもので,「順察」の意味である。「病多相類而非,其名眾」は,『史記』倉公伝に記載された皇帝に対して述べた「病名多相類,不可知,故古聖人為之脈法」[20] 2813とたがいに裏付ける関係にある。「審察診病而鍼之」とは,「審其虛實而調之」である。「治貴賤各有理」については,『霊枢』根結の「刺布衣者,深以留之;刺大人者,微以徐之」[4]19,『霊枢』寿夭剛柔の「刺布衣者,以火焠之;刺大人者,以藥熨之」[4]21が,その実例にあたる。


2023年4月10日月曜日

天回漢墓医簡中の刺法 02

   2 鍼刺による出血の処理および刺法の禁忌を論ずる


 㓨(刺)血不當出,㓨(刺)輒以【指案】,【有】(又) 以【脂肪】寒(塞)之,勿令得囗,【已】。(650)

 手指で圧を加えて止血する方法は,『霊枢』邪気蔵府病形に見える。「刺澀者,必中其脈,隨其逆順而久留之,必先按而循之,已發針,疾按其痏,無令其血出,以和其脈」[4]16。「又以脂肪塞之」については,『霊枢』癰疽に見える「豕膏方」もこの類に属する傷のあとの処理法である。「發於腋下赤堅者,名曰米疽。治之以砭石,欲細而長,疏砭之,塗以豕膏,六日已,勿裹之」[4]135。このほか,『五十二病方』諸傷にもまた動物性脂肪を用いた外用による傷の治療処方が多く見られる。たとえば,「令傷毋(無)般(瘢),取彘膏、囗衍並冶,傅之」(14)[19]がある。

  短氣,不【㓨】(刺)。(663) 

 この竹簡は各論部分で,刺法の禁忌が述べられている。早期の鍼刺治法は,虚証には適さなかった。『史記』扁鵲倉公列伝には「形獘者,不當關灸鑱石及飲毒藥也」とある。『素問』奇病論には「所謂無損不足者,身羸瘦,無用鑱石也」[5]94とある。これらは虚証のことを言っていて,からだが痩せ細っていることに着目している。『霊枢』邪気蔵府病形はさらに進んで,脈を診ることで虚実を判断している。「諸小者,陰陽形氣俱不足,勿取以針,而調以甘藥也」 [4]16。『霊枢』終始は明確に「少気証」の診断根拠と治療の原則を提出している。「少氣者,脈口、人迎俱少而不稱尺寸也,如是則陰陽俱不足。補陽則陰竭,瀉陰則陽脫。如是者,可將以甘藥,不愈(「愈」字は『太素』により補う),可飲以至齊」[4]25-26。これは,この竹簡についての詳しい説明,すなわち「伝〔=解釈〕訓詁」であるとみなせる。


2023年4月9日日曜日

天回漢墓医簡中の刺法 01

   1 刺法には「脈刺」「分刺」「刺水」の区別がある

【脈】㓨(刺),深四分寸一,間相去七分寸一。【脈】㓨(刺),箴(鍼)大如緣〓1〔艸+咸〕(鍼)。分㓨(刺),囗【大】囗,間相去少半寸。㓨(刺)水,〓1〔艸+咸〕(鍼)大如【履】〓1〔艸+咸〕(鍼),囗三寸。(簡653,図1)

 ★図1 『㓨数』簡中の「脈」字 簡652と簡653 〔省略〕

 簡653の内容は「脈刺」「分刺」「刺水」という諸種の異なる刺法の操作要領,およびその使用する鍼具の形状を概説していて,全篇の綱領である。整理者はその簡の背部にある刻み目上下2本と,その番号の断面図中の位置に基づいて,この簡を本篇の最初の簡とした[8]。

  1.1脈刺

  「脈刺」は,簡653に二カ所出現する。「刺」の前の一字は不完全であるが,整理者は残存する筆画からその字形を「〓2〔画像〕」,「月(肉)」と「永」に従う文字で,本篇の簡652(図1)にみえる「脈熱」「它脈」の「脈」字と形に違いがないので,「脈」字と解することができる(張家山『脈書』中の「脈」字の書法はこれと異なり,字形は「肉」と「𠂢」に従う。裘錫圭先生によれば,古文字の正写と反写には往々にして差がなく,「永」と「𠂢」はもともと二つの字ではない。金文の「永」字が「〓3〔画像〕」となっている例はしばしば見られる。「〓4〔画像〕」または「〓5〔画像〕」は川の支流を象っていて,おおむね後に字義を明確にするために,字形が左向きを「永」字,右向きを「𠂢」字と規定している[9])。『霊枢』官針に「病在脈,氣少當補之者,取以鍉針於井滎分輸」とある。すなわち「脈刺」の法に属する。また「経刺」「絡刺」の区別がある。「凡刺有九,以應九變……三曰經刺,經刺者,刺大經之結絡經分也。四曰絡刺,絡刺者,刺小絡之血脈也」[4] 22。〔簡653の〕「深四分寸一」とは,鍼刺の深さが四分の一寸のことを指す。すなわち張驥先生がいう「浅深出内」の法度である。「間相去七分寸一」とは,鍼刺部位間の距離が七分の一寸ということを指す。「少半寸」とは,三分の一寸のことを指す。秦漢時代の標準的な常用の尺度では,一尺は23.1cm[10],十寸が一尺である。したがって一寸は2.3cmである。よって「四分寸」は0.56cm, 「七分寸」は0.33cm,「少半寸」は0.77cmである。この数値からすると,脈刺の鍼刺の深さはかなり浅く,間隔はかなり近いが,分刺間の距離はやや遠い。

 脈刺に用いる鍼具は,簡の文によれば,「針大如緣針」,『説文解字』系部に「緣,純也」とある。段玉裁注:「此以古釋今也,古者曰衣純,見經典,今曰衣緣。緣其本字,純其叚(假)借字也。緣者,沿其邊而飾之也」[11] 654。縁とは衣服の縁どりを指し,縁針とは衣服の縁を縫うために用いる針であり,普通の縫い針よりもやや大きい。湖北省江陵鳳凰山第一六七号漢墓から出土した前漢初期(文景期)の縫い針は,長さ5.9 cm,最大径約0.05 cmで,針先はやや欠けていて,針体の太さは均一で,針孔は小さく,内部に黄色の絹糸を結んでいて[12],例証とできる。『霊枢』では「鍉鍼」に対応する。『霊枢』九針十二原:「鍉鍼者,鋒如黍粟之銳,主按脈勿陷,以致其氣」[4]6。『霊枢』九針論:「三者人也,人之所以成生者血脈也。故為之治針,必大其身而員其末,令可以按脈勿陷,以致其氣,令邪氣獨出」[4]128。河北省満城の前漢中山靖王劉勝墓から金・銀製の「九鍼」が出土した。その中の金の医療用鍼1:4446は鍉鍼にちがいない。その形状は上端を柄とし,断面を方形とし,下部を鍼身とする。断面は円形で,柄の上端には小さな穴があり,柄の長さは鍼身の長さの倍で,全体の長さは6.9 cm,柄の長さは4.6 cm,幅0.2 cm,鍼部分の長さは2.3 cmである(筆者按語:鍼の部分の長さはちょうど漢制の一寸に合致しているので,全体の長さは三寸であり,『霊枢』の鍉鍼の「長さ三寸半」の記載とは少し食い違う)[13]116。末端は鈍く,形状は半米粒と類似しており,『霊枢』九針十二原にいう鍉鍼の「鋒の黍粟の鋭の如し」という記述に合致している(図2参照)[14]。

 注:図は以下から引用:河北省博物館編.大漢絕唱 滿城漢墓.北京:文物出版社,2014:202。

 図2 劉勝墓出土金銀鍼(左から右に向かって:1:4366,1:4391,1:4447,1:4446,1:4390,1:4354 )

 〔図2 省略〕

 脈刺の具体的な操作方法についても,『霊枢』官針に次のように述べられている。「脈之所居深不見者,刺之微內針而久留之,以致其空脈氣也;脈淺者勿刺,按絕其脈乃刺之,無令精出,獨出其邪氣耳」[4]23。この刺法の要領は鍼をその脈に刺しても血を出さないことにあり[15],精気を回復させ,邪気だけを出すことにある(『霊枢』九針十二原の「針陷脈則邪氣出」もこのことを指している)。そのため下に「㓨(刺)血不當出〔血を㓨(刺)して當に出だすべからず〕」という処理法の文があり,ここにつなぐべきである。

   『霊枢』周痹:故刺痹者,必先切循其下之六經,視其虛實,及大絡之血結而不通,及虛而脈陷空者而調之,熨而通之[4]60。

   『素問』調経論:血有餘,則瀉其盛經,出其血;不足,則補(「補」原作「視」,『甲乙』『太素』により改む)其虛經,內鍼其脈中,久留血至(「血至」原作「而視」,『甲乙』『太素』により改む)脈大,疾出其鍼,毋令血泄[5]121。

引用文からわかることは,経絡を診察することによって,血の結留は実であり,脈が陥空であるのは虚であり,経脈の盛虚によって刺法は補瀉を使い分ける,ということである。瀉法は脈を刺して血を出す方法であり,補法は『霊枢』官針にいう「病在脈」の刺法に近い。『㓨(刺)数』篇では脈診が論じられて,盛虚を弁別する方法(下文の簡652に見える)があるとはいえ,その刺法には補瀉の区分はまだ見えない。したがって本篇中の「脈刺」は後世の経絡補瀉刺法の濫觴であると推測される。

1.2分刺

 分刺については,本篇内に注がある。「所胃(謂)分㓨=(刺,刺)分肉間也」(669)。『霊枢』官針に「病在分肉間,取以員針于病所」[4]22とあり,この「分刺」の法である。下文にある「五曰分刺,分刺者,刺分肉之間也」は,簡669が解釈するところと同じである。

 分刺に用いる鍼具は,『霊枢』では員鍼に対応する。『霊枢』九針十二原(01):「員針者,針如卵形,揩摩分間,不得傷肌肉,以瀉分氣」[4]6。『霊枢』九針論(78):「二者地也,人之所以應土者肉也。故為之治針,必筩其身而員其末,令無得傷肉分,則邪氣得竭(原作「傷則氣得竭」,『甲乙』卷五第二により改む)」[4]128。満城漢墓から出土した銀の医療用鍼1:4366の上端は欠損しているが,残存部分は細長い円筩形で,鍼尖は鈍い円形をしており,『霊枢』九針論(78)に描かれている「筩其身而卵其鋒」のようである。そのため九鍼中の員鍼である可能性がある[13]118。(図2)

 分肉とは,筋肉を指す。赤と白の境がはっきりしているので,その名前がある。『素問』診要経終論の「春刺散俞,及與分理」について,『素問攷注』で森立之は「凡肌表白肉刺而不見血之處,謂之肌膚,又曰肌肉。見血之處,謂之分肉,又曰分理,言榮衛血氣之相分之處也」[16]と注している。分肉の間とは,筋肉の間隙を指す。『霊枢』経脈では,十二経脈はみな「伏行分肉之間」に出る。『太素』巻五の「人有幕筋」に楊上善は「幕,當為膜,亦幕覆也。膜筋,十二經筋及十二筋之外裹膜分肉者,名膜筋也」[7]54と注している。「分肉之間」とは,各筋肉間にある筋膜の間隙[17]を指していて,分刺で刺す部位がこの場所であることがわかる。

1.3刺水

 刺水とは,『霊枢』官針に「病水腫不能通關節者,取以大針」[4]22とあるのが,この法である。用いる鍼具は,竹簡にみえる「針大如履針」によれば,古代人が履(くつ)を編むときに用いた針の大きさぐらいである。『霊枢』では「大針」である。『霊枢』九針十二原(01)に,「大針者,尖如梃,其鋒微員,以瀉機關之水也」4]6とあり,『霊枢』九針論に「九者野也,野者人之節解皮膚之間也。淫邪流溢於身,如風水之狀,而溜不能過於機關大節者也。故為之治針,令尖如挺,其鋒微員,以瀉機關內外(「瀉機關內外」の五字は『鍼灸甲乙経』から補った。原文は「取」に作る)大氣之不能過於關節者也」[4]129とある。筆跡が劣化して不鮮明になっているため,竹簡にある「□三寸」が鍼具の長さであるかどうか詳細は不明であるが,もし鍼具の長さであるとすると,『霊枢』にいう大鍼の「長四寸」とはやや異なる。

 天回医簡が墓主とともに埋葬されたのは,前漢の景帝から武帝の時代(紀元前157年~紀元前141年)[18]である。中山靖王劉勝は,漢の景帝劉啓の子で,武帝劉徹の庶出の兄であり,武帝の元鼎四年(紀元前113年)二月[13]336-33に亡くなっているので,天回墓の主人の死後,50年足らずである。竹簡『㓨(刺)数』の内容は,『霊枢』官針と満城漢墓から出土した医療用鍼と対応しているので,出土文献・伝世文献・出土文物が相互に実証する関係になっていて,前漢以来の鍼刺治療法の伝承と推移を研究するために多くの証拠を提供している。


2023年4月8日土曜日

  天回漢墓医簡中の刺法 00

 『中国針灸』2018.10.01

顧漫,周琦,柳長華(中国中医科学院中国医史文献研究所)


  【要旨】四川省成都天回鎮の漢墓から出土した医簡のうち,整理者が「㓨(刺)数」と命名した部分は鍼刺治療法に関する専論であり,中国医学鍼灸の伝承発展を研究する上で非常に貴重な新史料である。本論は出土文献と伝世文献および出土文物の相互確認の方法を用いて,そこに保存されている前漢初期の鍼刺古法について散逸した史料の収集探求をおこなった。これにより,論中の述べられている「脈刺」「分刺」「刺水」という異なる刺法操作の要領およびその使用する鍼具の形状は,『霊枢』の記載や考古学で発見された「九鍼」とたがいに裏付けられた。論中の多くの初期の鍼処方は,『史記』倉公伝や『素問』繆刺論などの篇および漢代の画像石「扁鵲行鍼図」に見える鍼刺方法を反映している。鍼刺と脈診との密接な結びつきは,古代における経脈医学の「通天」思想をあらわしている。


  【キーワード】㓨数;天回医簡;刺法;脈刺;分刺;『史記』扁鵲倉公列伝:『素問』繆刺論;『霊枢』官鍼


『漢書』藝文志[1]醫經の小序:「醫經者,原人血脈經落(絡)骨髓陰陽表裏,以起百病之本,死生之分。而用度箴(鍼)石湯火所施,調百藥齊和之所宜〔醫經なる者は,人の血脈・經落(絡)・骨髓・陰陽・表裏を原(たず)ね,以て百病の本,死生の分を起こす。而して用(も)って箴(鍼)石湯火の施す所を度(はか)り,百藥齊和の宜しき所を調う〕」。

 近代〔歴史学的にはアヘン戦争から五四運動までの時期〕成都の名医,張驥先生は「箴石湯火所施」を解釈して,「余按箴、石、湯、火是四法〔余(われ)按ずるに箴・石・湯・火は是れ四法〕」といい,あわせて『素問』『霊枢』諸書を引用して,箴は九鍼,石は砭石を指すと指摘する。「是鍼以取其經穴,淺深出內,補瀉迎隨,各有法度;石以刺其絡脈,去出其血,癰瘍多用之。後世瓷鋒刺血,即砭石之意〔是れ鍼は以て其の經穴を取り,淺深出內(=納),補瀉迎隨,各々法度有り。石は以て其の絡脈を刺し,去って其の血を出だし,癰瘍多く之を用ゆ。後世の瓷鋒(陶器片)刺血は,即ち砭石の意〕」。湯は蕩滌〔洗い流す〕を,火は蒸熨を指す,「是湯以蕩之,火以灸之也。故曰箴、石、湯、火是四法〔是れ湯は以て之を蕩(あら)い,火は以て之を灸するなり。故に曰わく,箴・石・湯・火は是れ四法,と〕」[2]という。四川省成都天回鎮漢墓出土医簡M 3:121(以下「天回医簡」と略称する)には,石・犮・灸・㓨(刺)・傅(敷)・尉(熨)・湯・醪・丸などの多種の治療方法に関連する名詞が見え,前賢の「箴・石・湯・火は四法である」というのには先見の明があることが十分に証明された。本論は天回医簡中の鍼刺方法に関する内容を討論し,その他の治療方法については稿を改めて述べる。

 天回医簡の簡六部分は,全部で48本の簡があり、そのうち25本は完全で,簡の長さの平均は30.2cm,秦漢尺の1尺3寸にほぼ合致する。3本の縄によって編まれ,簡の背部には刻みが入っている。この簡の字体はすでに隷定後の隷書に属し,字形は平たく長く,波磔がはっきり見られ,漢代前漢中期以降の碑刻の隷書とほとんど変わらない。本篇には題名は見えないが,整理者は簡の内容にある「㓨(刺)數,必見病者狀,切視病所」(簡670)に基づき,『㓨(刺)数』と命名した[3]。

 『霊枢』邪客:「黃帝問於岐伯曰:余願聞持針之數,內針之理,縱舍之意」[4]113。

 『素問』湯液醪醴論:「今良工皆得其法,守其數」[5]33。

 『素問』疏五過論:「聖人之術,為萬民式,論裁志意,必有法則,循經守數,按循醫事,為萬民副」,「守數據治,無失俞理,能行此術,終身不殆」[5]195-96。

 以上の『内経』の文例では,「数」は常に「法」「理」と互文〔同義語の重複を避ける修辞法〕である。李伯聡氏[6]はすでにこの現象を指摘し,「ここから分かるように,いわゆる〈守数〉は〈得法〉(法則を掌握する)の意味であると互いにあきらかにしている」と論断した。また『太素』巻二十三・量繆刺の「凡刺之數」の一節の楊上善注には「數,法也」[7]381とあり,特に「㓨数」とは「刺法」の意味であることの証明とすることができる。

 本篇は内容と体例によって,総論と各論の二つに分けることができる。総論は刺法の原則を論述し,全部で6本あり,文は連続して書かれている。各論では,40種類以上の病症の具体的な鍼刺治療法を記載し,全部で42本あり,1本の簡にはそれぞれ一つの病症の刺法しか記されていない。ここでは本篇の記載に基づき,前漢の初期鍼刺治療法のいくつかの特徴を探求することをこころみる。以下に分けて論述する。


2022年12月8日木曜日

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則 その6

参考文献


[1]黄帝内经素问[M]. 明顾从德刊本影印本. 北京:人民卫生出版社,1956.

[2]程士德. 内经:第2版[M]. 北京人民卫生出版社,2006.

[3]许慎,等. 汉小学四种:下册:[M]. 成都:巴蜀书社,2001:1553.

[4]皇甫谧. 针灸甲乙经[M]. 周琦,校注,北京:中国医药科技出版社,2019(第2版).

[5]梁繁荣,王毅.揭秘敝昔遗书与漆人一一老官山汉墓医学文物文献初识[M]. 成都:四川科学技术出版社,2016.

[6]何任. 金匮要略校注[M]. 北京:人民卫生出版社,2013:166.

[7]李景荣,苏礼,任娟莉,等. 备急千金要方校释[M]. 北京:人民卫生出版社,2014:1069.

[8]张从正. 子和医集[M]. 邓铁涛,等编校. 北京:人民卫生出版社,1994:87.

[9]皇甫中. 明医指掌[M]. 北京:人民卫生出版社,1982:170.

[10]余云岫. 古代疾病名候疏义[M]. 北京:学苑出版社,2012:239.

[11]灵经经[M]. 明赵府居敬堂刊本影印本.北京:人民卫生出版社,1956.

[12]马莳. 黄帝内经灵枢注证发微[M]. 田代华,主校. 北京:人民卫生出版社,1994:45.

[13]柳长华,顾漫,周琦,等. 四川成都天回汉墓医简的命名与学术源流考[J]. 文物,2017(12),58-69.

[14]司马迁. 史记[M]. 北京:中华局、1982.

[15]黄怀信. 鹖冠子校注[M]. 北京:中华书局,2014:323.

[16]李克光,郑孝昌. 黄帝内经太素校注[M]. 北京:人民生出版社,2005.

[17]裘锡圭.长沙马工堆汉墓简帛集成[M](伍). 北京:中华书局,2014.

[18]裘锡圭. 长沙马工堆汉墓简帛集成[M](陆). 北京:中华书局,2014:11.

[19]张家山二四七号汉墓竹简整理小组. 张家山汉墓竹简〔二四七号墓〕[M] 释文修订本. 北京:文物出版社,2006.

[20]周波. 战国时代各系文字间的用字差异现象研究[M]. 北京:线装书局,2012:283-324.

[21]郭霭春.黄帝内经灵枢校注语译[M]. 天津:天津科学技术出版社,1999:484.

[22]黄龙祥. 中国古典针灸学大纲[M]. 北京:人民卫生出版社,2019:259-261. 

    〔訳注:260頁:「去瓜」は「五節」の一つである。㿗疝の特徴は「囊腫 瓜の如し」である。すなわちいわゆる「形 匿す可からず,常(裳) 蔽うことを得ず」であり,鈹鍼を使用して水腫を瀉して解消する。「故に命(な)づけて去瓜と曰う」。〕

[23]何宁. 淮南子集释[M]. 北京:中华书局,1998:756-757.

[24]森立之. 神农本草经[M]. 北京:北京科学技术出版社,2016:66.

[25]顾漫,周琦,柳长华. 天回汉墓医简中的刺法[J]. 中国针灸,2018,38(10):1073-1079.

[26]丁光迪. 诸病源候论校注[M]. 北京:人民卫生出版社,2013:605.

[27]段玉裁. 说文解字注[M]. 上海:上海古籍出版社,1981:349.

[28]黄龙祥. 老官山出土西汉针灸木人考[J]. 中华医史杂志,2017,47(3):131-144.

[29]裘锡圭. 老了今研[M]. 上海:中西书局,2021.

[30]钱超尘. 《成都天回汉墓竹简》可正《内经》《伤寒》文字之失[J]. 中医文献杂志,2020,38(1):1-2.

[31]朱鹏举. 浅淡出土古文献材料在研读《黄帝内经》中的重要价值[J]. 中医教育,2018、37(2):78-80.

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おまけ:

重磅!老官山汉墓出土罕见经络漆人以及神医扁鹊失传2000多年的医典《成都老官山汉墓》(下)| 中华国宝

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《天回医简》扁鹊医学辨治体系(老官山汉墓医简)

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成都挖出扁鵲墓,失傳千年的上古扁鵲醫書重見天日?

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2022年12月6日火曜日

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則 その5

 五則:馬刀

『霊枢』癰疽(81):

發於腋下,赤堅者,名曰米疽。治之以砭石,欲細而長,疏砭之,塗以豕膏,六日已,勿裹之。其癰堅而不潰者,為馬刀挾癭,急治之〔腋の下に發して,赤く堅き者は,名づけて米疽と曰う。之を治するに砭石を以てし,細くして長からんことを欲す。疏(まば)らに之を砭す。塗るに豕の膏(あぶら)を以てし,六日にして已(や)む。之を裹(つつ)むこと勿かれ。其の癰の堅くして潰(つぶ)れざる者は,馬刀挾癭と為す。急(すみ)やかに之を治せ〕[11]135。


 馬刀:『内経』の教師用参考書は,「俠癭」と一つにして解釈し,「病名。瘰癧の類に属す。常に連なって出現し,堅い。其の形が長いものを馬刀という。耳の下と頸項に生じて,欠盆から腋の下まで続いたり,あるいは肩の上に生じて下ったりする」[2]462と注釈している。この注は,諸説を取り合わせようと努力して,かえって意味不明なものになってしまっている。『霊枢』の原文にしたがえば,この病はすでに「腋の下に発する」と分類されていて,「其の癰 堅くして潰(つぶ)れざる者」は,「赤く堅き者」と対になって挙げられていることは明白である。したがって「馬刀」は部位を言っているのであって,腋の下にある癰疽の名に属するとすべきである。これは『諸病源候論』〔巻32・癰疽病〕疽候によっても裏付けられる。「發於掖下,赤堅者,名曰米疽也;堅而不潰者,為馬刀也〔掖(わき)の下に發して,赤く堅き者は,名づけて米疽と曰うなり。堅くして潰れざる者は,馬刀と為すなり〕」[26]。


 『霊枢』経脈(10)に「膽足少陽之脈,……是主骨所生病者……腋下腫,馬刀俠癭」とある。「馬刀」は足少陽脈の「所生病」に属する。かつまた『甲乙経』に収録された「馬刀」を治療する穴の多くは,足臨泣・陽輔・淵腋・章門などの足少陽の穴を取り,その発病部位が足少陽脈がめぐるルート上にあることがわかる。また『甲乙経』巻八・五藏傳病發寒熱第一下で引用される『明堂』の三つの条文で,「腋下腫」が「馬刀瘻」と一緒に挙げられている[4]271-272。これもその部位が腋の下に近いことを示している。「馬刀」と並んで見えるものには「馬瘍」という病名もある。『甲乙経』巻三・腋脇下凡八穴第十八に引用される『明堂』に「淵腋,在腋下三寸宛宛中,舉臂取之,刺入三分,不可灸,灸之不幸,生腫蝕馬刀傷,內潰者死,寒熱生馬瘍可治〔淵腋は,腋の下三寸宛宛たる中に在り,臂を舉げて之を取る。刺入すること三分,灸す可からず。之を灸すれば幸いあらず,腫蝕馬刀を生じて傷(やぶ)れ,內に潰(つぶ)るる者は死す。寒熱して馬瘍を生ずれば治す可し〕」とあり,注文で『素問』気穴論(58)の淵腋〔淵掖〕穴の注「足少陽脈氣所發〔足少陽脈氣 發する所〕」[4]106を示している。これは馬刀と馬瘍の発病部位が淵腋穴周辺の腋下部に位置することを示している。そして同時に淵腋穴は馬刀を治療する主穴である。『甲乙経』巻九の第四に「胸滿馬刀,臂不得舉,淵腋主之〔胸滿馬刀,臂 舉ぐること得ざるは,淵腋 之を主る〕」[4]295とあり,巻十一の第九下に「馬刀腫瘻,淵腋・章門・支溝主之」[4]353とある。


 出土医書では,以下のものに「馬」という病名があらわれる。『足臂十一脈灸経』7-8:「足少陽脈……其病……脇痛,□痛,產馬」[17]189。『脈書』簡四:「在夜(腋)下,為馬」[19]115。天回医簡では「𦟐」あるいは「㾺」と書かれている。天回医簡303に「少陽產瘻產㾺,脇外穜(腫)」,簡594に「(足少陽脈)腋𦟐痛」(図3)とある。


図3 天回医簡 簡303と594〔省略〕


その発病部位が腋の下であること,および少陽脈の所産病に属するなどの記述から,われわれはそれを『霊枢』『甲乙経』に見られる「馬刀」と結びつけることは容易である。すなわち,「馬」と「馬刀」は同じものを指しており,癰疽の形状を描写しているのではないことは明らかである。天回医簡の文字をみれば,「𦟐」は肉(月)部に従っていて,人体のある部位を指すとするべきである。「㾺」は病部に従っているので,これはこの部位と関連する病の名前である。『説文解字』病部に「㾺,目病。一曰惡氣箸身也。一曰蝕創〔㾺は,目の病。一に曰わく,惡氣 身に箸(つ)くなり,と。一に曰わく,蝕(くさ)れ創(かさ),と〕」[27]とある。「目の病」という意味は,明らかにこれとは合致しない。『五十二病方』の目録に「治㾺」があり,その治方に「㾺者,癕痛而潰〔㾺なる者は,癕(=癰)痛みて潰(つぶ)る〕」[17]297とある。これも癰疽に類する疾病であり,『霊枢』と同じで,『説文解字』にいう「蝕創」の意味に近い。天回の漆塗り経脈人形の銘文にも「腋淵」(筆者は,もともとの字形は「夾淵」に作ると考えている)という名称があらわれ,腋の下の部位にしるされていて,『霊枢』『明堂』がいう「淵腋」に相当する[27]。


 以上の文献の整理を通して,われわれは『霊枢』の癰疽篇と経脈篇に見える「馬刀」という病名は,出土医書に見える「馬」病に由来する可能性が高いと考える。逆に伝世医籍にある関連記述も,出土医書にあらわれる「𦟐」「㾺」などの字を考証して解釈する助けとなる。その病の特徴は,発病部位が腋の下であり,足少陽脈がめぐるところであり,癰疽の病証に属し,治療に常用されるのはそこに近い淵腋穴である。したがって頸項部に発症する瘰癧とは異なる病であるので,混同してはならない。


 裘錫圭先生は次のように指摘している。「出土文献は古書の真偽と時代,古書の体例およびその源とその発展,古書の校勘と解読などの古典学の問題を研究する上で,極めて際立った重要な役割を発揮することができる」[29]19。さらに「中国古典学の再建」を展望して,「大量の出土文献が発見され,その整理と研究は,中国古典学の再建に前例のない好条件をもたらした。古典学研究と密接に関連する出土文献は将来もひきつづきあらわれるだろうし,すでに発表された出土文献には新たに整理し,研究を続ける必要があるものがある」[29]24という。天回医簡は,新たに発掘された早期の医学文献として,中国医学経典を校読〔校勘解読〕する上で,伝世文献では代えがたい重要なはたらきを果たすことができ,すでに学界の注目を集め議論を引き起こしている。


2022年12月5日月曜日

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則 その4

 四則:去爪


『霊枢』刺節真邪(75):

黃帝曰:刺節言去爪,夫子乃言刺關節肢絡,願卒聞之。岐伯曰:腰脊者,身之大關節也;肢(股)脛者,人之管(所)以趨翔也;莖垂者,身中之機,陰精之候,津液之道也。故飲食不節,喜怒不時,津液內溢,乃下留於睾,血(水)道不通,日大不休,俛仰不便,趨翔不能。此病榮(滎)然有水,不上不下,鈹石所取,形不可匿,常不得蔽,故命曰去爪。帝曰:善〔黃帝曰わく,「刺節に去爪〔水を去る〕と言う。夫子は乃ち關節の肢絡を刺すと言う。願わくは卒〔詳〕らかに之を聞かん」。岐伯曰わく,「腰脊は,身の大關節なり。股脛は,人の趨翔する所以(ゆえん)なり。莖垂は,身中の機,陰精の候,津液の道なり。故に飲食 節ならず,喜怒 時ならざれば,津液 內に溢れ,乃ち下(くだ)って睾に留まり,水道 通ぜず,日々に大きくなりて休(や)まず,俛仰 便ならず,趨翔すること能わず。此の病 滎然として水有り,上(のぼ)らず下(くだ)らず,鈹か石の取る所,形 匿(かく)す可からず,常(もすそ)蔽(おお)うことを得ず,故に命(な)づけて去爪〔水を去る〕と曰う」。帝曰わく,「善し」/郭靄春の語訳に基本的にしたがい,著者の説明に合わせて訓読した〕。[21]487


 爪:『甲乙経』巻九・足厥陰脈動喜怒不時發㿗疝遺溺癃第十一は,「衣」に作る[4]309。『太素』〔巻22〕五節刺の楊上善注は,「或水字錯為爪字耳〔或いは「水」字を錯(あやま)って「爪」字と為すのみ〕」[16]705という。郭靄春先生は楊注に賛同する[21]484。黄龍祥先生は「去爪」は「去瓜」に作るべきだと考えている[22]。按ずるに,「爪」と「衣」はともに形が近いので「水」字を書き誤ったのであり,楊上善の説に従うべきである。後の文に詳しいように,「去爪」が刺す病において,水が滞留するのは腰脊・股脛・茎垂〔陰茎と睾丸〕のところであり,「水道が通じなくなり,日ましに大きくなり休(と)まらず」,身体の腫れが大きくなって,いつも着ている衣服では体に合わなくなる。これが「裳不得蔽〔裳(も) 蔽(おお)うことを得ず〕」である(『霊枢』の原文は「常」字に誤る。『甲乙経』に従って「裳」字に作るべきである)。

 〔訳注:上半身を覆うころもを「衣」といい,下半身を覆うころもを「裳」という。『説文解字』に「常,下帬(=裙=スカート)也」とあり,「裳」字は未掲載である。「常」は誤字とするのではなく,郭靄春が引用する恵棟『読説文記』にあるように,「裳」の古字とするべきであろう。〕

そのため,このような治法を「去水」というのである。このような呼称は,漢代では決してまれなものではない。たとえば,『淮南子』繆稱訓に「大戟去水,亭曆愈張,用之不節,乃反為病〔大戟(薬草名)は水を去り,亭曆(薬草名)は張れを愈せども,之を用いること節ならざれば,乃ち反(かえ)って病を為す〕」[23]とある。峻下逐水〔峻烈な瀉水作用〕を代表する別の薬である芫花の『本経』における別名は,「去水」である[24]。天回医簡『刺数』に「㓨(刺)水,〓4〔艸+咸〕(針)大如履〓4〔艸+咸〕(針),囗三寸〔水を刺す,箴(はり)の大いさ履箴の如し,囗三寸〕」(簡653)[25]とある。その中の「水」の字形は〓5〔画像〕に作り,やや劣化して読みづらいが,「衣」「爪」字の古隸ときわめて混淆しやすい。それに使用する鍼具もかなり大きく,『霊枢』にある「大鍼」に相当する。『霊枢』九針十二原(01)に「大針者,尖如梃,其鋒微員,以寫機關之水也〔大針なる者は,尖(さき)は梃(つえ)の如く,其の鋒(ほこさき)は微(かす)かに員(まる)し,以て機關の水を寫するなり〕」[11]6とある。まぎれもなく「去水〔水を去る〕」に用いるものである。そして『霊枢』刺節真邪篇の「去水」が対象としているのは,「腰脊」「股脛」などの関節の肢絡〔四肢の絡脈〕と「身中の機」と称される「茎垂」であり,まさに大鍼が主治する「機関の水」である。したがって『刺数』にある古い刺法の一つである「刺水」は,「五節刺」〔『霊枢』刺節真邪「刺有五節」。また『太素』の篇名〕中の「去水」の濫觴とするべきであり,刺節真邪篇の「去爪」は「去水」を伝承過程で書き誤ったものとする証拠ともなる。


2022年12月3日土曜日

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則 その3

 三則:快然


〔図1:天回医簡 簡421「後與氣則律然」あり。省略す。〕


 『霊枢』経脈(10):

脾足太陰之脈,……是動則病舌本強,食則嘔,胃脘痛,腹脹善噫,得後與氣則快然如衰,身體皆重〔是れ動ずれば則ち病み舌本 強(こわ)ばり,食らえば則ち嘔(は)き,胃脘 痛み,腹 脹(ふく)れ善く噫(おくび)し,後と氣とを得れば則ち快然として衰うるが如し,身體 皆な重し〕[11]31。


 「得與氣則快然如衰」:『太素』の楊上善注:「穀入胃已,其氣上為營衛及膻中氣,後有下行與糟粕俱下者,名曰餘氣。餘氣不與糟粕俱下,壅而為脹,今得之泄之,故快然腹減也〔穀 胃に入り已(お)わり,其の氣上(のぼ)って營衛及び膻中の氣と為り,後に下行して糟粕と俱に下る者有り,名づけて餘氣と曰う。餘氣 糟粕と俱に下(くだ)らざれば,壅(ふさ)がって脹と為る。今 之を得て之を泄らす。故に快然として腹 減ずるなり〕」[16]190 。


 「快然如衰」:馬王堆帛書『陰陽十一脈灸経』甲本21は「怢然衰」[17]200に作る。乙本20は「逢然衰」[18]に作る。張家山竹簡『脈書』簡三四は「怢然衰」の三字が残欠していて,帛書の甲本から補う[19]121。


 『長沙馬王堆漢墓簡帛集成』の注釈:

    魏啓鵬・胡翔驊(1992:29):怢は「佚」「逸」に通じ,安逸,心地よい。いま按ずるに,「逢」と「怢」は書き方がまったく異なる。形の構成から見れば,「怢」字は,「心」に従い「失」の声である。戦国の楚の文字では通常「失」字は,〓1〔辶+方+𠂉+羊〕と書かれ,あるいは隸定〔隸書の字形〕では〓2〔辶+止+羊〕となり,……「逸」と「失」は「失」の声に従い,往々にして通仮し……「逢」字は秦漢の文字では〓3〔辶+夂+羊〕とも書かれ,「羊」が誤って「丰」の形に変わる。帛書乙本の「逢」は〓1〔辶+方+𠂉+羊〕(〓2〔辶+止+羊〕)の形が誤ったものにちがいないことがわかる。そして『霊枢』経脈などの医籍に見える甲本の「怢」に相当するところにある「快」はあきらかに「怢」字の形が誤ったものである[17]200。


 馬王堆簡帛には楚文字のなごりが多く残されており,主に楚系の写本の影響を受けているとの指摘がすでにある[20]。馬王堆帛書乙本を書いた人は,おそらく〓2〔辶+止+羊〕字の楚文字の形をあまりわかっていなかったため,字形の近い「逢」に誤って書いたのだろう。天回医簡『脈書』下経は「快然」を「律然」に作る(簡421,図1)。見たところ,〓1〔辶+方+𠂉+羊〕(〓2〔辶+止+羊〕)から来た字形の誤りは,帛書乙本が「逢」字に作る情況と似ている。この字形の違いから,われわれはこのいくつかの経脈文献が異なる伝承に由来し,底本には異なる文字が書いてあったと推測できる。帛書乙本と天回医簡はともに戦国文字で書かれた底本を写したものであるが,『霊枢』経脈篇が基づいた底本は帛書甲本に近い秦漢文字に転写された写本である(その字形の変遷関係は図2を参照)。


 図2 字形字形の変遷関係表


〓1(〓2) →字形を誤る→逢(秦漢の際・馬王堆『陰陽』乙本)

 (戦国) →字形を誤る→律(西漢初・天回医簡『脈書』下経)

      →通仮字→怢(秦漢の際・馬王堆『陰陽』甲本)→字形を誤る→快(伝世医籍『霊枢』)


2022年12月2日金曜日

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則 その2

 二則:不表不裏,其形不久 


 『霊枢』寿夭剛柔(06):

病有形而不痛者,陽之類也;無形而痛者,陰之類也。無形而痛者,其陽完而陰傷之也,急治其陰,無攻其陽;有形而不痛者,其陰完而陽傷之也,急治其陽,無攻其陰。陰陽俱動,乍有形,乍無形,加以煩心,命曰陰勝其陽,此謂不表不裏,其形不久〔病 形有って痛まざる者は,陽の類なり。形無くして痛む者は,陰の類なり。形無くして痛む者は,其の陽 完(まつた)くして陰 之を傷(やぶ)るなり。急(すみ)やかに其の陰を治し,其の陽を攻むること無かれ。形有って痛まざる者は,其の陰 完(まつた)くして陽 之を傷るなり。急(すみ)やかに其の陽を治し,其の陰を攻むること無かれ。陰陽 俱に動ずれば,乍(たちま)ち形有り,乍(たちま)ち形無く,加うるに煩心を以てし,命(なづ)けて陰 其の陽に勝つ,と曰い,此れを表ならず裏ならず,其の形 久しからず,と謂う〕[11]20。


 「此謂不表不裏,其形不久」。馬蒔の注:「病有陰陽俱病,形似有無而心為之煩,此乃陰經陽經各受其傷,而陰為尤甚,欲治其表,陰亦為病,欲治其裏,陽亦為病,治之固難,形當不久矣〔病に陰陽 俱に病む有り,形 有無に似て心 之が煩を為す,此れ乃ち陰經・陽經 各々其の傷を受くるも,陰 尤も甚だしと為す。其の表を治せんと欲するも,陰も亦た病を為し,其の裏を治せんと欲するも,陽も亦た病を為す。之を治すること固(まこと)に難く,形 當に久しからざるべし〕」[12]。


 天回医簡『逆順五色脈蔵験精神』の「病不表,不【可以鑱】石。病不裹〈裏〉,不可以每(毒)藥。不表不【裏者】,〈死〉 〼〔病 表ならざれば,鑱石を以てす可からず,病 裏ならざれば,毒藥を以てす可からず。表ならず裏ならざる者は,〈死〉〼〕」(簡707)[13]は,「不表不裏」を死証とみなした古い証拠を提供してくれた。『素問』移精変気論(13)は祝由を論じて,「今世治病,毒藥治其內,鍼石治其外,或愈或不愈,何也……故毒藥不能治其內,鍼石不能治其外,故可移精祝由而已〔今の世の治病は,毒藥 其の內を治し,鍼石 其の外を治す。或いは愈え或いは愈ざるは,何ゆえか……故に毒藥は其の內を治すこと能わず,鍼石は其の外を治すこと能わず。故に精を移し由を祝す可きのみ〕」[1]31-32とある。『素間』湯液醪醴論(14)には,「當今之世,必齊毒藥攻其中,鑱石鍼艾治其外也〔今の世に當たっては,必齊・毒藥もて其の中を攻め,鑱石・鍼艾もて其の外を治するなり〕」[1]33とある。ともに「鑱石」(あるいは鍼石)と「毒薬」が対になって文ができていて,天回医簡の文と意味は同じであり,当時の医家の治療法として一般的な方法であった。また『素問』奇病論(47)にある「所謂無損不足者,身羸瘦,無用鑱石也〔謂う所の不足を損すること無かれとは,身 羸瘦するは,鑱石を用いること無かれとなり〕」[1]94は,『史記』で倉公が述べている「尸奪者,形弊;形弊者,不當關灸鑱石及飲毒藥也〔尸奪する者は,形弊(つか)る。形弊(つか)るる者は,當に灸鑱石及び毒藥を飲ましむるに關すべからざるなり〕」[14]2802と一致する。また『史記』倉公伝において,倉公は「論曰:陽疾處內,陰形應外者,不加悍藥及鑱石〔論に曰わく,「陽疾 內に處(お)り,陰形 外に應ずる者は,悍藥及び鑱石を加えず」と〕」[14]2811という。「悍薬」と「毒薬」とは同じ意味である。「論に曰わく」の文例によれば,これはまさに倉公が扁鵲の医論を援用しているにちがいない。『鶡冠子』世賢に「若扁鵲者,鑱血脈,投毒藥,副肌膚閒,而名出聞於諸侯〔扁鵲の若き者は,血脈を鑱し,毒藥を投じ,肌膚の閒を副し,而して名 出でて諸侯に聞こゆ〕」とある。治療の方法としては,扁鵲が鑱石と毒薬の使用にたけ,当時の医学の主流を代表していて,当時の人はみなこのことを熟知していたことがわかる。治療の原則としては,扁鵲は表裏を陰陽に分け,「鑱石」と「毒薬」という二種類の治療法を臨床に用いた。病が表にあり陽に属すれば,鑱石・鍼艾をもちいて攻め,病が裏にあり陰に属すれば,毒薬・湯液をもちいて達するようにした。もしその病が表でもなく裏でもない場合は,これを攻めても可ならず,これに達しても及ばず,治療方法はないので,死証である〔著者は,「病 膏肓に入る」の出典「在肓之上,膏之下,攻之不可,達之不及,藥不至焉」を踏まえて記述していると思われる〕。『霊枢』寿夭剛柔や『素問』奇病論などの篇にみえる「不表不裏」に関する論述が発掘された医経で裏付けられ,今本『黄帝内経』が扁鵲医経の理念を継承していることが明らかにされた。